14.こもりうた

【つきのよるにあいましょう】




よるねこはうたう
よるのうたを
いとしい いとしい
あのこのために








世界が深い闇の帳に包まれ、月が一際美しく輝く夜。
そんな夜にだけ、人の住む街をまるで踊るように飛び回るひとつの影があります。
立ち並ぶ家々と同じくらい大きな身体と、全身を覆う月の光を溶かしたように輝く白銀の毛並み。若星の鮮やかな煌きに似た青い瞳と、老星の静かな瞬きを思わせる赤い瞳とを持つ不思議な猫。
それは人々が寝静まった頃にどこからともなく現れる、夜猫の姿です。
夜猫は街中の屋根という屋根を軽やかに渡りながら美しい声で歌を歌います。
誰にも、等しく安らかな眠りが訪れるように。
誰もが、幸福な夢を見られるように。
おやすみなさい、と歌うのです。
そうして夜中歌った後、東の空に眩いばかりの朝日が昇る頃になりますと、夜猫はその光の中に溶けるようにして消えてしまいます。
しかしながら、また月の美しい夜にはひょっこりと姿を見せるのでした。
こうして夜猫が歌っていることを、大抵の人々は知りません。
けれど、それは仕方のないことでした。
夜猫が歌う間、人々は皆深い眠りに落ちているからです。
夜猫の歌を知っているのは、夜空に瞬く星達と、お月さま、そしてもうひとり。
夜猫は今夜もあの子に会いに行きます。






街の外れにひっそりと建つ、小さな家の傍まで夜猫はやってきました。
見上げた家の屋根には、お月さまの光を受けて佇む小さな影がひとつ。そこに在るのは、広がる夜の闇に似た色の髪をひとつに結い上げた少年の姿。顔の真ん中を横切るように付いた傷が目を引くその相手のことが、夜猫はずっと気になっていたのです。
少年は夜猫が見掛ける度、屋根の上から髪と同じ深い色の瞳でどこか遠くを眺めていました。夜じゅう、飽きることもなくずっとです。
少年が何を見ているのか、夜猫にはわかりません。それでも、夜猫の目には少年のまなざしがどこかさみしいものとして映っていました。


―――・・あのこは、いつもなにをみているのだろう?


少しずつ、夜猫は少年のことを考えるようになっていました。それはいつしか頭の中いっぱいに広がって、今では少年のことを考えるだけで、もやもやそわそわした心持ちになるほどだったのです。しかしながら夜猫は、自分から声を掛ける勇気がどうしても持てないでいました。夜猫はとても大きな猫です。この姿を見られて少年に嫌われてしまったらと思うと、足が竦んでしまうのです。
その代わりに、夜猫は歌を歌います。
少年に届くよう、心をこめて歌うのです。
歌が始まると、少年は必ず聴き入るようにそっと瞼を閉じました。それを見ると夜猫は、胸の中に灯りが灯るような、あたたかな心持ちでいっぱいになりました。
はじめは、それだけで良かったのです。
けれどその内、夜猫は少年と話をしたいという思いがむくむくと大きく膨らんで、抑えきれなくなりました。
そこである夜、夜猫はお月さまにお願いすることにしました。お月さまは不思議な力を持っていて、夜猫のように夜に生きるものたちの望みを聞きいれ、願いを叶えてくれるのです。
夜猫はお月さまに届くよう、大きな声で呼びかけます。


「お月さま、お願いがあります。どうか一晩だけ、わたしを人間にしてください。わたしは屋根の上に居るあの子とおはなしがしてみたいのです」


その願いは、お月さまに届きました。
お月さまが地上を照らすやさしい光がひとつに集まり、それが煌く白銀の雫となって夜猫の上へと降り注ぎます。全身に白銀の雫を浴び、眩しくて瞼を閉じていた夜猫が再び目を開きますと、そこに大きな猫の姿はありませんでした。
夜猫は人間の姿になっていたのです。少年と同じくらいの、男の子の姿に。
夜猫は、毛も尻尾もない自分の姿を一通り確かめました。いつもと違う身体になんだか不思議な心持ちがしましたが、それでもこれで少年の傍に行けると思えば、うれしくない筈がありません。
「ありがとう、お月さま!」
そうお礼を言うと、夜猫はうきうきと弾む心で少年の元へと向かいました。








少年は今夜も、屋根の上で遠くを眺めていました。
夜猫は、ずっとどきどきと煩く鳴っている胸の音が聞こえてしまうのではないか、とますますどきどきしながら少年の背中へそうっと近付きました。
「こ、こんばんはっ!」
思い切って声を掛けると、弾かれたように少年は夜猫の方を振り向きました。その深い色の瞳がまっすぐに向いて、夜猫はそれだけでふわふわと舞い上がるような心持ちになっていました。しかしながら。
「・・・キミ、誰?」
少年から返ってきたのは、とても冷たい声でした。そして少年の顔に浮かんだ表情も同じように冷たいものだったのです。
無理もありません。ずっとおはなしがしたいと思い続けてきたのは夜猫だけで、少年は夜猫のことをちっとも知らなかったのですから。
夜猫はすっかり困ってしまいました。人間の姿になれば、少年とも仲良しになれるとばかり思っていたのです。どうすればいいのかわからず、ただうろうろと目を左右に動かすばかりの夜猫を、少年は睨みつけるように見つめています。
その時、夜猫はふと良いことを思いつきました。
すぐに胸いっぱいに息を吸い込むと、ゆっくりと歌い始めます。
少年の為にいつも歌っていた、あの歌を。
すると少年は驚いたように目を見開いて、夜猫を見つめました。
「それ、キミが歌っていたの?ずっと誰が歌っているんだろうって思ってた!」
そう言うと少年は強張っていた表情を崩して、今度は花が咲くような笑顔を見せます。すると夜猫は、体中がかあっと熱くなって、急に胸が苦しくなったように感じました。
「歌が上手なんだね。ねえ、キミはどこかの歌い手さん?」
少年が訊ねてくるのに、夜猫は胸が苦しくてぷるぷると首を振ることしか出来ません。けれどそんな夜猫を気にしたふうもなく、少年のお喋りは続きます。
「そうなんだ。ねえ、こっち来ない?ボクと話をしようよ」
願ってもないチャンスです。夜猫はこくこく頷くと、すぐに少年の隣へと座ります。
しかしながら少年の肩と自分の肩が触れ合うほど近くに居ることに、夜猫はすっかり舞い上がっていました。少年から話し掛けられても上手く答えられないばかりか、少しも言葉が出てこないのです。出来たことと言えば、ただ頷いたり、首を振ったりするだけ。
それを悲しく思いながらも、夜猫は少年のお喋りに耳を傾けていました。
「ボクはね、月が綺麗な夜はこうして屋根に上って見ているんだよ。キミもそう?」
その問いかけに反射的に頷いてから、夜猫ははっとしました。
「・・・キミは、何を見ているんだろうって思っていたけど、お月さまを見ていたんだね・・・」
おずおずと言う夜猫に、少年はそっと月を見上げました。
「うん。前にね、教えて貰ったんだ。死んだ人はみんな月に行くんだよって。それでね、ずっと地上を見守っていてくれるんだって。だから月の綺麗な夜だったら、父さんと母さんもボクのこと良く見えるかなと思ってさ」
「キミの父さんと母さんって」
「死んじゃった。ずいぶん前のことだけれどね」
月を見上げる少年は、表情を変えないまま続けます。
「でも、さみしくないよ。夜、空を見上げればいつだって会えるんだから」
けれど、そう言った少年の横顔は夜猫の目にどこかさみしそうに映りました。それを眺めながら、夜猫はふと少年がとても疲れた顔をしているのに気付きました。顔付きもそうですが、くっきりと濃く目の下に落ちた陰が余計にそのように見せるのです。よくよく考えてみると、少年は夜猫が現れる夜にはいつも明け方まで屋根の上に居ました。
と、いうことは。
「ねえキミ、もしかして・・・眠ってないの?」
夜猫の言葉に、少年は苦い顔をしたまま小さく笑ってみせました。
「眠ってないのとは、違うかな。眠ろうと思っても、深く眠れないんだ。眠るとね、いつも悲しい夢を見るから・・・。父さんと母さんが死んじゃった日の夢を、ね。それで夜中に何回も目が覚めてさ。そしたら、こうして月を眺めるようにしているんだ。でもね、そんなときにキミの歌を聴くと、どんどん心が落ち着いてきて悲しくなくなるんだよ。ほっとして、穏やかな心持ちになって。ボクは、いつもキミに助けられている」
ありがとう、と今度はふわりと微笑むその顔を見つめながら、夜猫は少年をゆっくり眠らせてあげたいと強く思いました。
眠れぬ者に、穏やかな眠りを。
夜猫はすうっと息を吸い込むと、歌を歌います。
安らかな眠りを願う、夜の歌を。ただひとり、少年の為に。
夜猫の歌は、月夜のやさしい闇の中を静かに流れてゆきます。
それを聴くのは、星達と、今やふたりの頭の天辺に掛かるお月様と、少年だけ。
暫く歌っていると、少年の身体が少しずつ傾いて、その内夜猫に凭れ掛りました。それでも夜猫は、切れることなく歌を歌い続けます。
するといつしか少年から穏やかな息遣いが聞こえ出しました。どうやら深い眠りに落ちたようです。その安らかな寝顔は、顔を覗き込んだ夜猫も思わず見惚れてしまうほど。けれど、不意に少年がぶるりと身体を震わせました。
寒いのでしょうか。このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。けれど折角眠っているのに、起こすのも可哀想。
夜猫はどうしようかと考えた末、頭の上に居るお月さまに呼びかけました。


「お月さま、どうかわたしを元の姿に戻してください」


眠る少年を気にしながら潜めた声でお願いすると、夜猫の身体に再び白銀の雫が降り注ぎました。そしてその煌きが消えた頃には元の大きな猫の姿に戻っていました。
夜猫は少年を起こさないよう慎重に、ゆっくりとした動きで身体を丸めて少年を包み込みました。少年はふかふかの白銀の毛皮に包まれて、起きる様子もなく穏やかに眠っています。
はじめ、それを満足そうに眺めていた夜猫でしたが、その内夜猫自身も眠たくなっていました。
このまま眠ったら、少年にこの姿を見られてしまうかもしれない。
それは困る。
でも・・・眠い。
迷った夜猫でしたが、少年が目を覚ます前にここから離れれば良いだろうと思い立ちます。そのままひとつ大きな欠伸をすると、前肢にそっと顔を載せて瞼を閉じました。
そうして夜猫も少年と一緒に、お月さまのやさしい光の下で穏やかな眠りにつくのでした。








夜猫の歌を聴きながら、深く深く眠っていた少年がふと目を覚ますと、自分の身体がふかふかとあたたかい、白銀の毛皮に包まれていることを知りました。


あれ、ボクは・・・?


ぼんやりと考えていた少年は、頭の下でふかふかの毛皮が一定のリズムで上下していることに気付きます。
暫し動く毛皮の感触味わった後、そこから頭を上げた少年の目に飛び込んできたのは、がっしりと太い前肢と大きな猫の顔。少年は、大きな猫のお腹に頭を載せて眠っていたのです。
普通なら、それに驚いたり怖がったりするのでしょうが、少年はちっともそうなりませんでした。
確かに大きな猫でしたが、眠るその顔は穏やかで、また身体はとてもあたたかくて、こうして包み込まれていると酷く安心出来ました。
それに月の光を溶かしたような毛の色は、眠る前まで一緒にお喋りをしていた男の子の髪を思わせたのです。だからこそ、少年はこの大きな猫に親しみさえ覚えていました。
上下するお腹にそっと手を伸ばして、少年はやさしくその毛並みを撫でます。すると急に猫の尻尾が振られて、ぱたぱたと屋根を打ちました。何度撫でても同じように振られる尻尾に、悪戯心を起こした少年は、繰り返し猫のお腹を撫で続けます。
そうしている内に、猫の瞼がぱちりと開かれました。
その下に隠されていたのは、あの男の子と同じ青と赤の美しい瞳。


――― あの子だ!


姿形は全く違うというのに、何故か少年はそう思いました。
一方、目を覚ました猫はといえば、寝惚け眼で少年をぼんやり見つめていましたが、突然はっとした顔付きにになりました。そしてそのまま凍りついたみたいに固まってしまったのです。そんな猫を眺めながら、少年は臆することなく訊ねます。
「あのさ、さっき一緒にお喋りしたよね?」
すると猫は忙しなく目を左右に動かした後、諦めたようにこくりと頷きました。それに少年の顔は明るく輝きます。
「やっぱり!キミ、すごく大きいんだね。それにすごく綺麗な毛並み。月の光にあたるとぴかぴかして、本物の月が傍に居るみたいだ」
すっかり興奮した様子で喋り続ける少年に、猫は不思議そうな顔をしました。
「・・・キミは、わたしが怖くないの?」
「怖い?どうして」
「だって、わたしはキミよりとっても大きいし、猫だし・・・ヘンだろう?」
もごもごと言う猫に、少年はなんだそんなこと、と言わんばかりの顔でにっこりと笑います。
「でも、ボクはキミのこと、好きだよ」
少年の言葉を聞き、見開かれた猫の目は頭の上にあるお月さまのようにまん丸になりました。その後で、そっぽを向いた猫は前肢でごしごしと顔を擦り始めました。まるで照れているようなその仕草が可愛く見えて、少年は猫に触れようと手を伸ばして驚きます。
少年の目の前で、猫の身体が透け始めたのです。ふかふかとした毛並みも、あたたかな身体も、すぐ傍にあるのに次第に薄く感じられるようになっていたのです。時を経るにつれてますます透き通ってゆく猫の身体越しに覗いた空は、しらじらと明けてきていました。
朝がやって来るのです。
猫は・・・夜猫はもうここにはいられない時間なのです。
それを少年も、なんとなく悟りました。
「ねえ、また月の綺麗な夜には、キミに会える?」
少年が訊ねますと、夜猫はこくりと頷きました。
「じゃあ、また月の夜に会おう。ボク、待ってるから。屋根の上で、キミをずっと待ってるから。約束だよ!」
その言葉に嬉しそうに目を細めて、夜猫は少年の目の前で眩しい朝の光の中へ溶けるように消えたのでした。








こうして夜猫と少年は、月の綺麗な夜に会う約束をしました。
約束通り、次の月の夜に出会った夜猫と少年はたくさんお喋りをして、とても仲良しになったのです。
そして別れる時には、前と同じ約束をしました。
その次の夜も、また次の次の夜に出会った時も、ふたりは同じ約束をしたのです。
いつしか、月の綺麗な夜はふたりが会う日と自然に決まっていました。
月の綺麗な夜、夜猫は歌を歌いながら少年に会いに来ます。
少年もその訪れを屋根の上で楽しみに待っています。
そんな夜猫と少年の、その後はというと・・・それは星達とお月さまだけが知っているのです。









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