23.はこ

【Morpho’s BULE】




それは、目を奪われる鮮麗な青だった。
光の加減により色を変え、眩いばかりの青を煌かせる翅。
空の色とも、海の色とも、おれの瞳の色とも違う、明るく澄んだ光を宿す青い蝶。
静かな瞬きのようにそろそろと薄い翅を震わせる度、その残像が鮮やかに目の奥へと弾けて、散らばる。
どこか造りもの然とした、けれど正しく生きるものとして存在するそれは、『生きる宝石』と呼ばれ、珍重されているという。
父親から貰ったというその蝶をおれに見せながら、自慢げな口振りで語ったのは、護衛についていた大名の息子だったように思う。
当時、おれは幼いながらも中忍だったので、こうした護衛につくこともままあった。
目前に置かれた、全体に精緻な装飾の施された硝子函の中。
羽化したてと思しき蝶がそっと翅を広げていた。
未だ濡れたような翅はヴェルヴェットに似たやわらかな質感でありながら、そこに宝玉の輝きをも具えていた。
おれは魅入られでもしたように、そこから目を逸らすことを忘れた。
まるで奇跡のような、青。なんという美しき、蝶。
その内、蝶がふわり、と翅を瞬かせた。
澄んだ青が目前で弾けて、鮮やかな光の余韻を残す。





――― 嗚呼、この蝶に触れたい。





咄嗟に浮かんだ想いはすぐに頭の中を埋め尽くした。それはおれの中に生まれた、はっきりとした欲望だった。
儚い風情の蝶だ、きっとおれなんかが触れたら忽ちの内に壊れてしまう、と頭の冷静な部分で考えたけれど、治まらなかった。
その美しき青のヴェルヴェッドに触れる様を想像しただけで、うっとりと息が漏れるような、陶然たる心地になっていたのだ。
もしこれが大名の息子のものでなければ、迷うことなく函の中に手を伸ばしていただろう。
大名の息子が得意気に話すのを右から左へと聞き流しながら、おれは熱を帯びた眼差しで蝶を眺め続けた。
蝶はそんなおれの想いなど知らぬように、硝子函の中で濡れた翅を震わせていた。








・・・そんなことを、ここに来る度おれは繰り返し思い返している。








「ねえ、せんせい」
『なんですか』
「あんたに触れたい」
『ダメですよ』
「今すぐキスしたい」
『ダメです。というより無理でしょう』
「セックスだって」
『だから、無理だと言っているでしょうが』
「・・・さみしくて死にそう」
『死にゃしませんよ。大体あんたはそんなタマじゃないでしょうに』
聞き分けのない子供にでも対峙しているかの如く、せんせいの顔には微かな呆れと明らかな苦笑が浮かんでいる。
せんせいは、どんな時でも冷静且つ理性的だった。
髪を下ろして、丈の長い貫頭衣にも似た白い服を身に着けている今も、やっぱりせんせいは“先生”なんだ。もしその声が聞こえたなら、顔に浮かぶ表情とそっくり同じ調子だったろう。
けれど、せんせいの声はおれに届かない。
おれの声も、せんせいには届かない。
分厚い硝子で遮断された、この空間では。
それでも硝子の向うでせんせいの唇が動くので、おれはその動きを目で追う。
読唇術。これがおれたちに赦された、唯一の交信手段なんだ。
『それにね、オレに触った時点であんた本当に死にますよ』
わかっているでしょう、と言わんばかりにおれの目前に両手を翳す。
せんせいの武骨な、絡めるとかさついていながら、それでもしっかりとあたたかだった手は、今や無数の痣に覆われている。
それは、禍々しいまでの青。最早人の肌色と到底呼べないような、鮮やかな色。その青は手のひらだけでなく、服から覗く手首や首筋にまで拡がっていた。
以前会った時より、痣の範囲が明らかに拡がっていることにおれは瞠目する。
『少しずつ、拡がっています。後はここにも』
せんせいが指を伸ばして、頬に掛っていた髪を掬いあげて耳にそっと掛ける。
露わになった頬の、耳に近いところに浮かぶのは小さな青い痣。
―――・・もう、ここまで。
おれは無意識に息を呑んでいた。











せんせいの肌に、この痣が現れたのは少し前のことだった。
珍しく外の任務に就いた先で、せんせいが対峙した相手は忍ではなく、特殊な呪術を使う術師だった。
その術師を屠る際に、その身に厄介な呪を受けたらしい。
気付いた時には、右手に小さな染みにも似た痣が浮いていたのだという。
痣からは、薄青い靄のような瘴気が立った。
命あるものが瘴気に僅かでも触れれば、忽ちの内にその肌から血の気が失せ、全身が鮮やかな青に染まった。
そして皆例外なくのた打ち、?き苦しみながら絶命した。
一度その身が青に染まれば、どれだけ手を尽くしても助からなかった。呪をかけた相手は既に屠られ、その呪解の方法もわからない。
呪から派生する瘴気は、里の進んだ医療技術を用いたとしても手の施しようがないのだという。
勿論、せんせい自身の呪や痣に関しても同様に。
正しくそれは、呪だった。
せんせいの身体に浮かぶ痣は、日を追う毎にその範囲を拡げていった。痣が拡がれば、自然と立ち上る瘴気の量も増える。
己の存在が、命を奪う。
せんせいは、その事実に耐えられなかったんだ。
せんせいは自ら里に願い出て、隔離されることを望んだ。
願いはすぐに聞き届けられ、今は里の医療機関の中枢を担う施設の深部、分厚い硝子と幾重にも結界の張られた函のような空間に身を置いている。
ここならば、せんせいの瘴気が外に放出されることはない。
どれだけ身体中に痣が拡がろうとも、せんせいは誰も死なせることはない。
せんせいの存在は、今や機密扱いとなっていた。
もし他里にその身が渡れば、木の葉にとって脅威となる。
忍里以外でも、単純にひとごろしの道具としてせんせいを欲しがる輩は沢山居るだろう。
通常、一般の忍はここに入ることすら許されていない。
でも、おれは特別。
この施設の管理責任者である綱手さまの許可がある。
・・・とはいっても、普通に申し出たのでは許可が下りないのはわかっていたから、奥の手を使ったんだけど。
それでも半ば強引な取引に綱手さまが応じてくれたのは、おれとせんせいの関係を知っていた所為もあるだろう。
せんせいはおれの、恋人だった。
おれはいつも、暇さえあればせんせいにくっついて、手を繋ぎ、その身体を抱きしめることを何より好んだ。
勿論、それだけじゃ治まらないから、いろんなところでキスをして、沢山いやらしいこともした。なにせおれたちは恋人同士だから、当然だろう。
触れて、触れ合って、くっついた部分からとろとろと溶け合うような熱をも分かち合って。
腕の中にせんせいを収めて、ふたりで密やかにあまく、穏やかにやさしく笑い合っていた頃のことを、今のおれは上手く思い出すことが出来ない。
せんせいの吐息も、おれを呼ぶ声も、肌の熱も。
こうして隔てられていれば何ひとつ感じられるものはないんだ。
そして瘴気を放つせんせいの身体は着実に弱り始めても、いた。
強く抱きしめても決して揺るがなかった身体が、今は随分痩せて見る影もない。顔色も悪く、その姿は酷く頼りない。それが一層不安を掻き立てる。
もし全身に、この青が拡がったらどうなるのか。
それはおれにもせんせいにもわからない。けれど、考えるだけでも恐ろしいことだ。
きつく手のひらを握り込んだまま、縋りつくようにせんせいの顔を見遣る。
ふと、その頬に浮かんだ痣が、蝶の形に見えた。
昔、大名の屋敷で見た、硝子函の中の儚く美しい蝶の形に。





・・・あの時は、触れられなかった。
けれど今ならば、触れられる。
おれならばこの硝子を壊すことも、結界を破ることだって出来る。
函の中から出して、この手で触れられる。
せんせいに、触れられる。





まるで地面に水が染みるように、その衝動が、欲望が身体中に行き渡り、拡がってゆく。
おれの右手に自然とチャクラが集まる。
それは大きく膨れ上がり、眩いばかりの閃光を放つ。
せんせいは酷く驚いた顔をした。それはどこか怯えたような表情でもあった。
大丈夫だよ、せんせい。何も恐くないから。今ここから出してあげる。
せんせいの顔を見つめながら、おれは硝子に近付く。





『オレは、ここから出たくありません』





せんせいの唇が、はっきりと声なき言葉を紡ぐ。
次いで、強く鋭い眼差しに射られて、おれは戸惑う。
「・・・出たくないの?」
『出てどうするっていうんです。それにオレに触れた時点で、あんた死にますよ』
まるで脅し文句のように繰り返される言葉。せんせいから、幾度となく言われてきた言葉。
でも、もうおれは。
「いいよ、それでも。せんせいに触れられるなら」
おれが望むのは、たったそれだけだから。
『・・・バカなことを』
険しくなった表情のまま、せんせいは唇を動かす。
『もしここから出したら、オレは一生あんたを恨みます。あんたが死んだって忘れないし、あの世でだって許さない』
早口で捲し立てているのか、唇の動きが早い。せんせいは睨むようにおれを見ている。
せんせいはやる、といったら絶対にやる人だ。
でも・・・せんせいはおれの想いをちっともわかっていないんだ。
「せんせいは、酷いね」
『酷いのはどっちですか。あんたはオレのことを何ひとつ考えちゃいない』
「おれはせんせいのことしか考えてないよ」
『よく言う。オレの気持ちなんてこれっぽちも知らないくせに。・・・オレは、誰よりあんたを・・・』
最後の微かな唇の動きは、おれの目には読み取ることが出来なかった。
せんせいの顔が、どこか苦しげに歪む。
隔てられた向うで、僅かに俯いたせんせいがひたりと硝子に額を当てた。
せんせいの頬の痣が、光の加減と立ち上る瘴気の所為か、微かに揺らめいて見えた。
それはそっと翅を震わせる、かの蝶の様子にも似て。
おれは、奇妙に胸が波立つのを感じていた。





ねえ、せんせい。
おれは、せんせいがすきだよ。
多分、これからもずっと。
だから、おれはね。
今、せんせいに触れられるなら、このまま死んだってちっとも構わないんだ。





せんせいに気付かれないよう口の中で転がして、おれも額を硝子に付ける。
硬質で、冷たい硝子越しに重なりあう額からは、勿論熱も何も感じられなかった。
それでもおれたちは暫く、そのまま動かなかった。
否、動くことが、出来なかった。











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