32.つながった

【TUKIKAGEカフェ】

※Wパロ注意






とある街、長い長い階段を下った先にそのカフェはあります。









カフェは、元々月を象った小さなあずまやでした。
その街では、亡くなったものは皆月に住むと言われています。
あずまやは故人が月までのぼる前にこの世界で最後のお茶をのんでもらおうと、その頃一番月に近い場所だった高台につくられたものでした。
しかし歳月(としつき)を経るにつれ、高台の周りには高層の建物が次々と並び建ちました。
そしていつしかあずまやは建物の谷間に深く沈み込むこととなったのです。
建物の谷間で、高台に茂る緑の中に佇むあずまやはまるで、緑の皿の上に置かれたアイスクリームのよう。
そこは今でもカフェ―――ただし月に住むもの向けの―――として街に在るのです。
そのカフェを営む、年齢不詳のマダム曰く。




「空から見ると、背の高い建物に囲まれたこの高台だけがぽっかりと黒くて、星のない夜に浮かぶ満月のように見えるのよ。
それで、地上にも月があることを思い出すの。
昔は月にのぼる前のひとがやって来ていたけど、今は地上が恋しくなって月に住むひとがここに来てしまうのね」




漆黒の夜の闇に溶けこむような、裾のたっぷりとした黒いドレス。
ドレスとおそろいの色をした黒髪をひとつに結い上げた美しいマダムはいつも顔に静かな微笑を浮かべています。
その微笑の中、ふたつの澄んだ瞳は水を湛えた大きな湖にも似て揺らぐことがありません。
向けられる眼差しときたら、まるで相手のすべてを見透かすよう。
月の話から果ては遠い昔日の話でさえも見てきたかのように語る彼女がなにものなのか、知るものは誰も居ません。
それでもマダムは長くカフェに居て、やってきたお客さまのために丁寧にお茶を淹れるのです。
カフェに広がる心地よい静寂と、マダムの淹れる美味しいお茶と。
そしてマダム自身が持つ不思議な魅力。
月に住まうものでさえふらりと訪れたくなる場所、それがこのカフェなのです。






そんなカフェに、今日はひとりの男のひとが来ています。
淡い月の光を粉にしてまぶしかけたみたいにやわらかく輝く、見事な銀色の長い髪を束ねるナイスミドル。
まさしくおじさま≠ニ呼ぶにふさわしい相手の許へ、マダムは優雅な仕草で以てお茶を運びます。
マダムが男のひとのために選んだのは、茶碗の中で花が咲く珍しいお茶でした。
白磁の茶碗に開いた花は、春の日の夕暮れにも似たやさしい橙色。
お茶からは湯気と共に甘く芳しい香が立ちのぼります。
男のひとはしばらく、目の前に置かれた茶碗の花を見つめていました。
向けられる眼差しは顔に浮かぶ表情と同様に静かなものです。
物思いに耽っている、もしくはここでないどこか遠くにあるものを眺めているような様でもあります。
お茶は少しずつ、茶碗の中で熱をなくしていきました。
そしてすっかり湯気の立たなくなった頃。
男のひとはふと、ようやくやるべきことを思い出したという顔つきで指を茶碗の中に差しこみました。
きれいな指が遠慮なく、良い香りのするお茶の中に沈みます。
茶碗の中から出てきた指は濡れていましたが、構わずテーブルに置かれました。
そのままテーブルの上を滑り出した指はもどかしげに、見目の様子とは不釣り合いなほど不器用に動きます。
けれど男のひとは真剣そのものの様子です。
考え考え、ときには悩みながらも模様のような線をテーブルに描いていきます。
不器用な指運びの所為か線はがたがたで、模様もずいぶんといびつな形のものばかり。
それでも何度も描いては払って消し、指をお茶に浸し直してまたあたらしい線を描く、のを繰り返します。
指から払われたお茶たちはいつしか、小さくまあるい滴玉になってテーブルのあちこちに散らばっていきました。
そうして、ようやく描き終えたのでしょうか。
不意に指を止めた男のひとはまた静かな顔つきに戻っていました。
しかしながらそこに浮かぶ表情はどことなくさみしげでもあったのです。
男のひとはしばらく、ぼんやりとテーブルの上を眺めていました。
けれどある時、着いていた席から煙のようにすうっと姿を消したのです。
それは音もなく、テーブルに残る模様がなければ最初から誰も居なかったかのようでした。
さきほどまで男のひとが座っていた席に、マダムは静かに近付きます。
思いがけず散らかったテーブルの上には、転がる滴玉。
マダムはそのひとつを指で摘みあげました。
ふよふよとした、やわらかなジェリーにも似た感触のまあるい滴玉をそっとつぶした時。
ふわりと広がったお茶の芳しい香りと共に、マダムの脳裡に浮かぶ光景がありました。
それは、やわらかな色の夕日を背にして立つ、ひとりの子供の姿。
きれいな銀色の髪をした利発そうな男の子は、よく見ると男のひとと似た顔だちです。
男の子は、どこかはにかんだ様子でこちらを見つめています。
ただしそれは子供らしい、一点の曇りもない明るい表情でした。
マダムが男の子と目が合ったと思った刹那、脳裡の光景はぱっと消えうせました。
そうしてさきほどと少しも変わらない、散らかったテーブルの前にひとりで立っていたのです。
マダムは自らの形の良い顎にそっとひとさし指をあてがうと、少しの間考える素振りをみせました。
その後でテーブルに転がる滴玉を丁寧に拾い集め、カフェにある小さな瓶の中に入れたのです。
最後にマダムはカフェのお手伝いをしてくれている娘に声をかけました。
「ひとつ、頼まれてくれないかしら」






マダムからの頼みごとを受けて、娘は次の日の朝早く、託された小瓶を手に街を離れました。
いくつかの町と、広い草原。潮の匂いとひらけた海原。高い山に大きな川。
のりものを乗り継ぎ、さまざまな風景を経てようやく、目的の場所へと辿り着きます。
娘はすぐにマダムから告げられていた部屋を訪ねました。
古びたアパートの一室には、銀色の髪の男の子―――ではなく、顔の大半を布で覆った、奇妙ないでたちの銀色の髪の男のひとがいました。
相手の見目に娘が驚く一方で、男のひとは玄関先に立つ娘に対してあきらかに怪訝な眼差しを向けました。
覆う布の所為で片方の瞳しか見えていなくても、娘にはその様子がはっきりと伝わってくるように感じられます。
ただ、それも仕方のないことでした。
なにせ見ず知らずの若い娘がお届けものです≠ニ急にやってきたのですから。
しかも届け物はといえば滴玉の詰まった小さな瓶。
それがなにかなんて相手には一切わからないのです。
誰からの頼まれものなのかもはっきりしない品を、怪しいと思わない人間はまずいないでしょう。
「とにかく、こんなものは受け取れないから。いいかげん帰ってくれない?」
冷たく言い放つ男のひとに、娘のこころは怯みかかります。
けれどマダムから頼まれた用事なのです。このまま帰るわけにはいきません。
娘が困っていると、男のひとの背中ごしにかかる声がありました。
後ろを振り向いた男のひとに、声の主は宥めるようなやさしい口調で話しかけています。
最初こそあれこれと文句を言う声が聞かれましたが、すぐに収まりました。
その後で、男のひとの隣からひょっこりと覗く顔があります。
相手は、聞こえていた声と同様にやさしそうな顔をした男のひとでした。
マダムと同じ黒い髪と黒い瞳。
鼻の上には顔を横切る一本の傷がありましたが、それもどこか愛嬌があるようなのです。
「一体どうしたんだい?」
やさしい声で訊ねられた娘は、勇気を出して銀色の髪の男のひとに告げたのと同じ話を繰り返しました。
自分が遠い街からやってきたこと。
雇い主から頼みごとをされてここにいること。
その雇い主からあずかった小瓶を受け取ってほしいこと。
そして。
「熱いお湯を貰えませんか。ほんの少しでいいんです」
娘のお願いに、銀色の髪の男のひとはあいかわらず訝るような眼差しです。
しかしもうひとりの男のひとはにっこりと微笑んで、部屋に上がるよう言いました。
すっかり驚いたふうの銀色の髪の男のひとにも、もうひとりの男のひとは微笑んだまま。隣からあれこれと盛りだくさんの文句を並べ立てられても気にした様子はありません。
ふたりのやり取りに戸惑う娘にも、さきほどと同様に部屋へどうぞと誘います。
そんな相手に、先に音を上げたのは銀色の髪の男のひとでした。
『イルカせんせいはひとが好すぎる』だの、『そんなあやしい女を部屋に上げるだなんて』だの、『おれよりその女のほうが大事なんですか』だの。
娘が部屋に上がった後も、イルカせんせいと呼ばれた男のひとに向けてずっとぶちぶちぐちぐち零しています。
『きっとあの子にもなにか事情があるんでしょう』とか、『遠くから来ているのに話も聞かずに追い返すなんて可哀想です』とか、『あんまり煩いと本気で嫌いになりますよ?』とか。
せまい室内で背後霊のように付き従う相手を宥めつつ脅しつつ、台所に立つイルカせんせいは薬缶で沸かしたお湯を湯呑みに注ぎます。
そうして湯呑みを手に、ちゃぶ台の前に座っていた娘のところへ戻りました。
娘の目の前に、しっかりと湯気の立つ湯呑みが置かれます。
すると娘は手にした小瓶のふたを開け、湯呑みの中へと傾けました。
まあるい滴玉はころころと瓶の口からすべり出ると、行儀よくまっすぐにお湯へと落ちていきます。
小さな玉がお湯の中でぱちんとはじけるように溶けた瞬間、甘く芳しい香りがふわりと室内に立ち上りました。
その様子を傍で眺めていたイルカせんせいは感嘆しきった声を漏らし、銀色の髪の男のひとは胸の前で腕を組んだまま面白くなさそうな―――イルカせんせいの興味が自分以外に向けられているのがまったく以てこれっぽちも気にくわないとありありとわかるような―――顔です。
しかしながら芳しい香りが銀色の髪の男のひとの鼻にまで届いた時、その顔つきが一変しました。
なにかにとても驚き、それでいてどこか困惑し、また一方では感じる痛みを精いっぱいに堪えているといったふうの、複雑な表情が浮かんでいたのです。
あきらかに様子の違った相手へ、イルカせんせいは声をかけました。
けれど、男のひとは答えません。
視線を宙のある一点で留めたまま、なにもない空間を見つめ続けています。
それがどのくらい続いたでしょうか。
ある時、男のひとは手で顔を覆いました。
娘の傍に居たイルカせんせいはすぐに男のひとの許へ寄ります。
どうしました、と尋ねられた相手から返ってきたのは小さな声。
「父が……、さっきまで目の前に」
震える声でそれだけ告げると、男のひとは深くうつむいてしまいました。
心なしか、その肩まで震えているようです。
さきほどと比べてすっかり弱々しくなった相手の姿。
娘の目にも男のひとの身体がずいぶんと小さく見える気がしました。
そんな男のひとを見つめながら、娘はマダムから小瓶を預かった時のことを思い出します。




「―――あの方は、手紙を書きたかったのよ。たくさんの思いを込めた手紙をね。
でも、あんまり上手くは書けなかったみたい。
言葉になりきらない思いが零れて、たくさんの滴玉になってしまった。
きっと、向ける思いが強すぎたのね。
だけど言葉より、零れてしまった思いの方が雄弁。
だから明日、この瓶の中身をしかるべき相手に届けてほしいの。
この思いを本当に届けたかっただろう、あの子に」




同じ部屋にこそ居ましたが、娘の目にはなにものも映りませんでした。
けれど、男のひとは芳しい香りの先に確かに父親の姿が見えたのでしょう。
溢れ出すほどたくさんの思いを、男のひとは上手く受け取れたのでしょうか。
そして、父親からの思いになにを思ったのでしょうか。
娘がぼんやりと考える間に、イルカせんせいはうつむく男のひとに向かって腕を伸ばしました。
伸びた腕が身体を包み込んで、そっと自らの傍へと抱き寄せます。
それからかすかに震える肩を、曲がった背中を、愛しむように大きな手のひらで撫でています。
言葉はないけれど、その仕草と眼差しはまさしく最愛のものに向けられるべきもの。
親密でいて、どこか甘くも感じられる空気に、娘は急に居心地が悪くなりました。
そして自分が見事な邪魔者となってしまったことを悟ったのです。
ここに長くいてはいけない。
そう思い、慌てて部屋を去ることを告げた娘が玄関で靴を履いている時。
「あの人に……父さんに、『ありがとう』と伝えてほしい」
背後から掛けられた、小さく掠れた声。
振り向くと、銀色の髪の男のひとが立っていました。
抜けるように白い肌の、僅かに赤くなった目許に娘は気付きましたが、あえて触れることはしませんでした。
代わりに、必ず伝えると請け負えば、相手はそっと目を細めてみせました。
顔の大半が布で覆われていたって、娘の目には確かに男のひとが微笑んでいるように見えたのです。
またおいで、と玄関先まで見送りに出てきたイルカせんせいと男のひとに頭を下げて、娘は部屋を後にしました。
カフェで目にした、銀色の長い髪の男のひとの真剣な面持ち。
滴玉の香りに、顔を覆う男のひとの姿。
その男のひとを抱き締めるイルカせんせいの、愛しみに溢れた眼差し。
月に住むものと地上に住まうものとの間に存在する、思いの連鎖。
消えることも、変わることもなく、互いを思い遣り深く結び続けるやさしい繋がり。






―――それはなんて幸福な関係だろう。






娘は知らず、自分の口元に笑みがのっているのに気付きました。
このことを早く誰かに話したくて、こころはずっとうずうずしています。
一番に話したいのはもちろん、小瓶を託してくれたマダムです。









さあ、帰ろう。
急いで帰ろう。
マダムの居る、あのカフェへ。









口の中で転がすように唱えながら、娘は帰り道を急ぐのでした。











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