34.なれないのは

【隣人にひかりさすとき】




開け放たれた窓から入り込む仄かに湿った夜の空気は、しらじらとした月明かりと共に室内を静かに侵食する。
窓の形よりも長く伸びた光の中に、イルカはひとり佇んでいる。
いつもはきっちりと結われた髪が無造作に肩の上へと流れ、その身に纏う浴衣もだらしなく着崩されている。
浴衣の裾から覗く、崩された膝に淡光が当たり、常の肌の色よりも奇妙に青白い。
それを見つめるともなしに見つめていれば、いつしか背後によく知った気配を感じた。
「来ると思ってた」
ぽつりと独り言のように零すも、返答はない。
ひとりで居た時より濃く、密になっていく空気に、イルカはゆっくりと気配の元を振り返る。




「―――・・結婚、するんだって?」




室内の、光が届ききらない暗がりから声を掛けられる。
月の光に目が慣れてしまっている所為か、咄嗟に相手の姿を捉えられない。
暗がりの中にあるシルエットに向かって頷けば、「そう」と短い返事を寄越される。
そして再び、室内には沈黙が落ちる。
この沈黙は些か厄介だと、イルカは思う。
未だ、相手の顔は暗がりの中ではっきりと伺えない。そして相手が、今何を思っているのかも。
ずっと昔から、男は傍に居た。
家族や兄弟という訳でもないのに、物心ついた時にはその存在は身近なものとしてあった。
そんな相手でも、度々こうして掴めない部分がある。
静かに息を吐いて、イルカは沈黙を破るように口を開く。




「なあ、覚えてるか。昔、一緒に拾った子猫のこと」




子供の頃にいつも遊びに行ってた河原の、丁度橋のたもとの影になったところ。そこに段ボールが置かれていたんだよな。あの時は夏の暑い最中だったから、きっと色々考えたんだろうけど。
その中で、にぃにぃってびっくりするくらい大きな声で鳴いてたな、アイツ。オレの腕にすっぽり収まるくらいちびっちゃかったのにさ。
白くてふわふわした毛の、その時頭の上に広がっていた鮮やかな空の色をそのまま切り取って嵌め込んだみたいな目をした子猫。
その目に見つめられたら、ふたりともそのまま放っておくなんてことはとても出来なくなっちまった。子供ながらに、何とかしてやりたいって思ったんだよな。
でも、オレは家でアイツを飼えないことをちゃんと知っていた。勿論、お前の家でもだ。だから、河原にあった掘建て小屋で、誰にも内緒で飼うことをふたりだけで決めたんだ。
アイツ、本当にちびっちゃかったから『チビ』って名前を付けて、家からこっそり食べ物を持ち出して。
でもちびっちゃいわりに何でもよく食べてたよな。牛乳でも煮干しでも魚肉ソーセージでも、あげたらあげた分だけ。
それを見たお前が、オレにそっくりだ、なんて大真面目に言ったんだぜ。





そこまで言って、イルカは一度口を噤んだ。
空いた手で、顔に掛る髪をゆっくりと掻き上げる。
そのひそやかな音がいやに大きく響くのを感じながら、再びゆっくりと口を開く。





「でもある日、急にチビが居なくなって」





前の日まで、アイツはオレたちがやった餌を食べて元気そうだったんだ。もしかしたら、どこかで迷子になってるかもしれないからって、ふたりして河原を一生懸命探し回ったんだよな。結局見つからなかったけど。
オレ、わんわん泣いたのを未だに覚えてる。
それをお前が慰めてくれたんだっけ。「誰かいい人に拾われたのかもしれない」って。




―――・・でもさオレ、お前にひとつ言ってないことがあったんだ。




チビが居なくなった次の日に、オレ今度はひとりで河原に行ったんだ。家から持ち出した牛乳と、煮干しを持って。
前の日、お前に言われたことも考えなかった訳じゃない。
でも、もしかしたらチビがあの小屋に戻ってきていて、そこでお腹を空かせて待っているかもしれない、って思ったら居ても立ってもいられなかったんだ。
その日は暑い日だった。太陽が頭の天辺に居座って、じりじりと全身を満遍なく焼かれているみたいだった。
道沿いにある民家の屋根瓦が太陽の光をみんな弾いてぎらぎらと兇暴に輝いて、足元の焼けたアスファルトもゆらゆら揺らめいて見えた。風ひとつ吹かない中で蝉だけがけたたまく鳴き喚くから、温く薄まった空気が肺に留まっていくみたいで只管息が苦しかった。
そんな中で河原に着いて、オレはすぐにあの小屋を覗いた。
でもやっぱりそこに、チビは居なかったんだ。
諦めきれなくて、オレは名前を呼びながら小屋の周りを探し回った。全身から汗が噴き出して、段々喉も渇いてきたけど、止める気にはならなかった。そこで止めたら、チビは一生見つからないかもしれない、なんて思ってさ。
・・・うん、何の根拠もなかったよ。でも、その時は確かにそう思ってたんだ。
そうしたら、その内にどこかからおかしな臭いがしてきた。
ものが腐る時の、鼻を刺す饐えた臭い、っていうのかな。
正直、吐き気もしたよ。でも、何故かオレは呼び寄せられるみたいに、そこへ向かって足を動かしていた。
小屋からそんなに離れていない、夏草がもうもうと生い茂る中だったよ。
最初黒い塊に見えたものは、オレが近付いたらわぁんと音を立ててその色を散らせたんだ。黒く見えていたのは、蠅だった。無数の蠅がそこにたかっていたんだ。
その下から現れたのは、犬の―――随分汚い毛並みをしていたから多分野良犬の―――死骸。
青々とした草の中に横たわって、その黒い眼はぼんやりと虚空を見つめていたよ。一体自分が何をされたかわからない、といった風に。
その犬は、ただ死んだんじゃなさそうだった。
腹を、何かで裂かれていたんだ。そこに収まっていたものが外にはみ出しているのが見えていたから。
腹の中にある間はぬめぬめと湿っていたんだろうそれは、既に乾いて干からびたようになっていた。そこにも蠅がたかっていたよ。
普通ならとっくに目を背けていた筈の犬の姿を、どうしてかオレはじっと眺めていた。何かが、気になったんだ。
そして、気付いた。
褐色の、変色した血みたくものがこびり付いた口元に、やわらかそうな白い毛が混じっているのを。




「なんでこんな話を、って思ってるだろ」




暗がりの中に目を凝らすようにしながら、イルカは口元に薄い笑みを載せる。
「・・・どうせやるなら、ひとおもいにやれよ」
相手の手元には、クナイが握られていた。そして、その鋭い切っ先がイルカへと向いている。
「アンタは、オレに殺されたいの?」
僅かも動揺した様子のないイルカに、相手は細く息を吐き出すように言った。それはどこか、途方に暮れたような声音でもあった。
「さあ、ね。どうだろう」
呟いて、イルカは暗がりの中のシルエットを見つめる。
そこで漸く、相手と目が合った、ような気がした。
ただ、それはイルカの思い違いだったかもしれない。それでも構わなかった。
イルカはシルエットを見つめながら、静かに告げる。









「それでもオレは、お前を嫌いにはなれないんだ」











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