36.このまま

【夏の日に】




ふと見上げた空はどこまでも青く、浮かぶ雲はそこだけ空を切り抜いたかのようにくっきりと白く、まるで作り物めいていました。
その中で、異端分子のように存在を強烈に主張する太陽を煩わしく思いながら、僕はビニル袋片手に道を歩いていました。
容赦なく注がれる日差しに白く焼けた足元のアスファルトが、ゆらゆらと立ち上る陽炎によってその輪郭を曖昧なものにしています。
上から下から容赦なく迫る熱気が、額から背中からといわず全身のありとあらゆるところから汗を滲ませました。道沿いにある木々や草花は、心なしか項垂れて元気が無いようです。
この道にあって動くものは、僕と僕の影だけです。他には何もありません。昼日中の、この暑さです。鳥も、虫も、そして人間までも、皆僕の知らないどこかへ逃げてしまったのかもしれません。もしかしたら、僕だけを残して忽然と消え失せてしまったのかも。昔読んだ何かの本のように。
なんて馬鹿げたことを考えていればその内、熱気を孕んだ薄っぺらい空気を震わすように蝉が鳴き出しました。一匹が鳴き出すとどこからともなく次々に声が重なってゆき、いつしかそれは大合唱となっていました。
その姦しいばかりの声に耳を傾けながら僕が向かうのは先生のアパート。そこを訪ねるのは随分と久しぶりのことでした。
僕と先生が、れっきとした先生と生徒だった頃にはよく遊びに行っていた、そこ。ただ、僕が忍として一人で歩き出したのと同じくらいに、なかなか足が向かなくなった場所でもありました。
特別、理由があったようにもなかったようにも思います。なんとなく自然に、そうなったのです。





商店街をまっすぐつっ切り、小さな煙草屋の角にある狭い路地を左に曲がって少し行くと、先生の住むアパートがあります。
アパートと言えば聞こえはいいですが、そこは今にも朽ち果てそうな二階建ての古い木造の建物です。荒家と呼んでも差支えないそこに、先生はずっと暮らしているのです。
新しいものはどんどん古びていきますが、元々古びていたものはその古び方故、あまり変わらぬように見えるのかもしれません。今見ても昔とちっとも変わらない外観に、僕は眩暈にも似たものを覚えたほど。けれど同時に、少しばかり安堵するような心持ちになるのが不思議なところです。
備え付けられた、今にも踏み抜いてしまいそうな心許ない階段を上って、右隅にある部屋。そこが先生の部屋、のはずです。
各部屋の扉の横に表札のようなものが付けられていても、年月を経たそれらは掠れて殆ど読み取ることが出来ないのです。
僕は記憶が違っていないことを祈りながら、どんどんと扉を叩きます。扉には一応呼び鈴らしきものが付いてはいますが、それは僕が遊びに行っていた頃にはもう壊れていました。その頃から直す予定というものが家主には無いようでしたので、多分今もそのままの筈です。
「せんせー、いるー?」
声を掛けると、中からぎぃぎぃと木の軋む音が近付いてきました。

――――部屋の中に敷かれた床板は、どんなに優秀な忍であっても足音をさせずにはいられないようになっているのです――――

そして足音が止み、代わりにドアが鈍く軋みながら開くと、玄関の暗がりの中から先生の顔が覗きました。眩いばかりの屋外の明るさに慣れた目には、そこがとても薄暗く映るのです。
「よぉ、久しぶりだな」
そう言うと先生は、顔全体を笑みの形にやわらかく崩します。それは誰もが思わず笑みを返したくなるような、そんなやさしい顔つきなのです。
「上がっても?」
僕が笑みを返しつつ訊ねますと、何を今更と言わんばかりに、先生は身体の位置をずらして中へと迎え入れてくれました。
一歩玄関の中に足を踏み入れた時、室内に籠もった密な熱気に出迎えられた僕の顔は、自然と顰まっていました。外も確かに暑いのですが、この室内の熱気は尋常ではないように思えたのです。風の流れがまるで感じられない部屋の空気は明らかに澱み、熱を孕んで重く沈み込んでいるようでした。僕が息苦しさすら覚えているというのに、一方の先生はあくまで涼しげな顔をしています。その内、僕は熱気で頭が茫っとしてくるのを感じました。
このままでは茹で上がってしまうと、慌ててチャクラを練って体温を調整することにしました。身体の正常な機能が狂うので、いつもは任務以外ではやらないようにしているのです。しかし、今回のような非常事態ではそうも言っていられません。
漸く身体が落ち着いて、周りを見る余裕が出てくると、僕は少しばかり違和感を覚えました。昔から狭いと思っていた玄関でしたが、記憶にあるよりも更に狭くなったような気がしたのです。今、少しでも腕を広げようものなら、腕が壁なり先生なりに当たってしまいそうです。
ただ、これは僕の身体が思いのほか大きくなった所為、かもしれません。昔の僕はアカデミークラスいちのちびすけで、同級生からよく揶われていたものでしたから。
僕は心持ち動作を小さめにして、靴を脱いで部屋に上がりました。そして脱いだものをきちんと揃えて置きます。
そんな僕の様子を見ていた先生が、満足そうに頷きました。靴を揃えることは、僕が昔から先生に煩く言われていたことのひとつだったのです。
先生は、礼儀作法に厳しい人でした。人に会ったら、まず挨拶。御飯を食べる前と後には「いただきます」と「ごちそうさま」。
そしてよく言われていたのが、靴を揃えることと、出したものは片付ける、ということでした。
先生の部屋は細々したものが沢山ありながらも、いつでも整然と片付いていましたから、ものが散らかっている状態が許せなかったのかもしれません。というより、片付いていないとこの狭い部屋では生活するスペースに困ったから、なのかもしれませんが。
その頃の僕は、靴は脱いだら脱ぎっぱなし、ものは出したら出しっぱなしでしたので、これが改まり、習慣になるまで先生からよく叱られたものでした。





しかしながら部屋に通された僕は、それら全てが記憶違いだったのではないか、と思わずにいられませんでした。
カーテンの閉めきられた薄暗い部屋の中で、本棚から掻き出されただろう本が床の上に散乱し、開けられたままの押入れや、段々に引き出された箪笥の引き出しからは、衣類や布団などがだらしなく垂れ下がっていました。
卓袱台には様々なものがごちゃごちゃと山積みされ、一部が雪崩れて床にまで山が広がっています。その中に、ゴミのようなものが混じっているのも見受けられます。下に敷かれた畳が見えないくらい、部屋の床は沢山のもので覆い尽くされていました。足の踏み場も碌にありません。まるで泥棒に入られて家捜しをされた後か、もしくは部屋の中を嵐が通り過ぎていったかのようです。
先生の部屋は昔の面影なく悲惨なほどに雑然とし、ただでさえ狭い部屋が散らかるもので更に狭く見えました。
「・・・先生、少しは片付けろって」
僕がそう言えば、「いやぁ、そうなんだけどな」と眉尻を下げて笑う先生は、鼻の傷を擦りながらぽつりと零します。
「でも、困るから」
何が、とは言いません。
言わなかったけれど、それだけで伝わるものが僕にはありましたから、「そう」とだけ返して混沌とした部屋から意識を逸らします。そして、手に持っていたビニル袋を先生に差し出しました。
「コレ、お土産」
「そんなに気を遣わなくていいのに」
「別に、大したモンじゃないから」
それでも未だ躊躇う様子をみせる先生を押し切って、僕は袋を手渡しました。先生は何かを言いたそうにしていましたが、結局「悪いな」とだけ言って袋を受け取ります。早速袋の中を覗き込んだ先生の顔は、中身を確かめるとすぐに綻びました。
「おー、美味そうだなぁ」
手渡した袋の中には、桃が入っていました。それは、商店街を抜ける途中にある八百屋の店先に、3個ずつ籠に盛って並べてあったものです。
桃は、僕にとって思い出深い食べ物です。
昔はこのアパートの大家であるおばあさんが、夏になると「沢山生ったから」と先生に桃を持ってきてくれていました。おばあさんの家の庭には大層立派な桃の木があり、その木は毎年夏頃になると沢山の実を付けていたらしいのです。
大家のおばあさんは先生のことをとても気に掛けていたようで、何かにつけて先生を訪ねてきていました。先生は昔から、お年寄りと子供には無条件に好かれていたのです。
勿論、無条件に先生を好いていた子供の僕も、アパートに入り浸っていましたので、よくそのご相伴に預かっていました。
おばあさんの持って来る桃の実はとても大きく、小さな僕の手をふたつ合わせてもはみ出してしまうほどでした。そして、その桃の甘く瑞々しいことといったら!
僕は手も口も汁でべたべたにしながら、一生懸命大きな桃に齧りついていたことを覚えています。
そんな僕の横で、先生も美味しそうに桃を食べていました。けれど、一緒に食べ始めてもいつも先生の方が先に桃を食べ終えるのです。それが悔しくて、半ばムキになって競うように食べていたことも思い出します。・・・結局、一度も先生に勝てたためしはなかったのですけれど。
子供時分の懐かしい思い出と、その甘い味。
八百屋の店先でそれらの記憶が頭と舌先に蘇った僕は、先生と一緒に食べたくなって桃を買い求めていました。
桃を見て、先生も同じ心持ちになったのでしょうか。
「どうせなら、今食べようか」
こっちこいよ、と呼びかけて先生は足の踏み場の無い中を身軽にひょいひょいと歩いていきます。器用なものです。
しかしながら、八百屋の店先から炎天下の中を歩いてきたのです。桃は生温くなっているに違いありません。
「冷たくないよ」
「たまにはそういうのもいいだろ」
先生はあっさり言うと、そのまま台所へと姿を消します。僕も先生の後を追いましたが、僕には同じように歩くことは不可能でした。足で本や服や他にも何かよくわからないものを踏みつけながら、どうにか台所へ入ります。
すると先生は、年期の入ったステンレスの流しの前に立って、桃を流水で洗っていました。台所は部屋と違って、記憶の中と同じようにすっきりと片付いています。ただひとつ違うところといえば、そこが随分狭く感じるということでしょうか。僕と先生、二人が立ったら満員御礼なのです。昔はもう少し広かったように思うのは、やはり僕がちびすけだった所為なのでしょう。
そんなことを思いながら先生の隣に立つと、先生は僕の手に洗ったばかりの桃をポンと手渡しました。
・・・それだけです。
包丁で切ることもなければ、皮を剥いでくれることもありません。
『桃は自分で皮を剥いて丸齧りするのが一番美味い』
というのが先生の持論のようで、先生と桃を食べるときにはいつも流しの前に陣取って少しずつ皮を剥いでは露になった身に齧りついていたものでした。
それを懐かしく思い出しながら、僕は濡れた桃にそっと爪を立てます。そこを起点に、捲れた皮を摘み、慎重に皮を剥いでいきます。赤みの強い桃の皮下から白い果肉が顔を覗かせると、甘い香りがより強く立ち昇りました。気持ちが良いくらい長く広く剥けた皮を三角コーナーに落としつつ、すぐに桃に食いつきます。
すると甘い汁が口の中いっぱいに溢れ出しました。口内に収まり切らなかった汁が、唇の端から垂れているのがわかります。
とても瑞々しい桃です。冷たくなくても、十分に美味しい桃です。
皮を剥くのももどかしく、僕は続けて桃に齧り付きました。
「美味しそうに食うなぁ」
先生は僕を見て笑いながら、傍に置かれたビニルに手を伸ばしていました。そしてもうひとつ桃を掴むと、それを流水で丁寧に洗います。その間にも、桃を食べ終えようとしていた僕に向かって。
「もう1個食えよ」
そう言うと、先生は僕に洗った桃を手渡そうとしました。けれどこれはお土産として持ってきたものなのです。
「いいってば。先生が食べろって」
「なんだよ、遠慮なんてしなくていいんだぞ」
「いや、だってこれお土産なんだから。先生が食わなくてどうするんだよ」
「でも3個もあるし」
「そういうことじゃなくて!オレは先生に食べて貰いたくて持ってきたんだって!」
つい口調が厳しくなってしまったオレに、先生は眉尻を下げ、どこか困ったような笑みを顔に浮かべました。
「・・・そうか。じゃあ、折角だから冷やしておこうかな」
先生の言葉を聞きながら、僕は冷蔵庫の中で桃がゆっくりと萎びて腐っていく様を想像していました。先生はきっと、この桃を食べないのでしょう。それだけは、わかりました。
僕が持ってきたものなら、もしかして口に入れてくれるかもしれないと思ったのに。





「――――・・・このままだと、イルカは死ぬよ」





僕が綱手様からそう告げられたのは、少し前のことでした。
言われるまでもなく、傍で目にする先生は随分と窶れているようでした。頬骨は浮き、顔色も酷く悪いのです。かさついた肌と、艶の無い髪は栄養の行き届いていない証拠でしょう。捲り上げられた袖から覗く腕は、枝のように細くなっていました。服を脱がせたらきっと骨と皮ばかりに違いありません。
先生はあるときを境に、ものが食べられなくなっていたのです。人間が生命を維持する為に一番必要なことを、自ら放棄したというのです。
台所は、片付いていたのではなく、単にずっと使われていなかっただけのようでした。その証拠に、調理器具や流しの周りにはうっすらと埃が溜まっていましたので。
原因は、わかっています。
あの人―――僕のもうひとりの恩師であり、同時に先生の恋人でもあった人が、英雄になったからです。
とは言っても、先生も僕もそれを実際にこの目で確かめた訳ではありません。あの人が英雄になったのは、この里から遙か遠く離れた任務地で、だったそうですから。
装備品や遺体だけでなく、里に遺されていた品も全て処分されたと聞いています。名だたる忍でもあったあの人は、存在した痕跡すら残して貰えなかったのです。
だからこそ、先生は部屋の中を引っ掻き回したのでしょうか。
共に過ごしたこの部屋で、彼の人の痕跡を探して。
果たして、何か見付かったのでしょうか。
もし見付かっていたら、何かが変わったのでしょうか。





先生は、昔から不器用な人でした。
そしてまた、一途な人でした。
他の誰に何を言われようと、自分が正しいと信じたことにはいつもまっすぐ一途でした。
僕のような者にも情を傾けて、様々な、本来なら受けなくてもいい、中傷や迫害を受けても、何事もないような顔で笑う人でした。
決して器用には生きられないだろうけれど、そのきっぱりとした清潔さが僕は好きでした。
けれど、それが今はとても悲しいのです。
このまま、先生もあの人の後を追うのでしょうか。
僕や、先生を心から慕う人たちを置いて。




「先生」




堪らなくなって、僕は先生を呼びました。
他にもっと言うべきことはあるように思いましたが、それ以上掛けるべき言葉を僕は持ち合わせていませんでした。
何を言っても、先生の意思を覆すことは出来ないと知っているから。




「先生」
「うん」
「先生」
「うん」
「せんせい・・・」




僕たちは馬鹿みたいにそんな遣り取りを繰り返しました。
その後で先生は一言「悪いな」と言いました。
何もかもわかった上での言葉に、僕は無言で流しにぽっかりと開くどこまでも暗い排水溝の穴をただじっと見つめていました。
先生は、それ以上何も言いませんでした。







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