38.なくしもの

【薄彩みわたる先】




そのひとは、声が出ません。
でもはじめから出なかったのではありません。
ある任務のさなかに、鋭い刃で喉を裂かれたのです。
それは負傷した仲間を庇った末の出来事、であったようです。
そのひとが倒れ伏した場所には、瞬く間に夥しい量の血が広がったといいます。傷の位置が少し違っていたら、そのひとはもうこの世にいなかった、と後から聞かされました。
地面に吸い込まれないまま広がっていく紅い水溜まりを脳裏に浮かべながら、そのひとの声もそこに皆流れ出てしまったのではないか、とおれはぼんやり思いました。






そのひとの身体には、たくさんの傷がありました。
肩、腕、脚、腹、背中、そして顔の真ん中を横切る一本筋。
盛大なものから、ささやかなもの、深いものから、薄っすら消えかかっているものまで様々です。
しかしながら喉元の傷はまだ新しい所為か、そのどれとも異なる様子でした。生々しい肉の色を晒す引き攣れた痕は、健康的な肌色の中にあって奇妙に浮き上がって見えるのです。そっと触れると指に滑らかに吸い付いてくるような、頼りなく張った薄い膜に触れる時に似た、何とも言えない心地がするのです。
喉元の、普段服の下に隠れる痕を間近で眺められるのは、今はおれだけです。そもそも見せびらかすものでもありませんし、それにおれが他の誰にも見せたくないと思うからです。
その傷に触れながら、痛いですかと訊ねれば、いいえもういたくはないです、とそのひとは答え―――おれは唇の動きを読むことが出来るのです―――、薄らと痛みを感じたような顔つきで微笑みます。
それにどうにか笑みを返そうとするのですが、少しも上手くいっていないようでした。
どうもおれはそのひとの傷に触れる度に痛そうな顔つきをしているらしいのです。
自分では、よくわからないのですが。









そのひとは、特別綺麗な声をしてはいませんでした。
でも、特別やさしい声をしたひとでした。


「カカシさん」


嬉しそうに、楽しそうに。
怒ったように、困ったように。
たくさんの表情をのせて、そのひとはおれの名前を呼びました。
するとそれだけで、平凡なおれの名前が一等素晴らしい、たからものにでもなったような気がしたものです。
それが嬉しくて、おれは名前を呼ばれる為だけにいつもその傍に纏わり付いていました。
けれど今、そのひとが唇を開いても何の声も聞かれません。出てくるのはひゅうひゅうと空気の抜ける音ばかりです。
それでも、そのひとがおれの名前を呼ぶときのやさしい響きを一生忘れることはないのでしょう。
そしてまた、そのひとがおれにくれたあたたかな感情も。








声が出なくなったことでそのひとが嘆いている姿を、今までおれは一度も目にしたことがありません。
病院で目を覚ましたときも、その事実を知らされたときも、一切取り乱したりはしなかったのです。自らの身に起こったことを、淡々と受け入れているように見えました。
・・・元々、誰かに弱音を吐くようなひとではないのだけれど。
そして声が出ない分、そのひとはよく笑うようになりました。
眉を下げ、少し困ったような顔で微笑むその姿を、おれは何度目にしたでしょう。
昔から笑顔が印象的なひとでしたが、以前はそんな顔で笑ってはいなかったように思います。それでも、そのひとの周りに居る人間はそんな笑顔にも救われている様子でした。
けれど、おれにはそれがさみしいのです。
おれに出来ることは何もないのかもしれません。
でもそのひとが辛い思いをひとりで抱えているのなら、それはとてもさみしいことだと思うのです。
おれは大事にしたいのです。
そのさみしい笑顔も、醜い傷も、辛い思いも。
そのひとをかたち作るひとつなら、大事にしたいと思うのです。
そう告げれば、そのひとは僅かに眉を寄せて曖昧に微笑みました。










その顔は泣いてはいなかったけれど、おれには確かに泣いているように見えたのです。















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