40.あまいあまい

tete-a-tete


資料3‐@
解術異常時における身体及び知覚・記憶障害に関する症例
※以下記載、うみのイルカ中忍(当時下忍)の手記による





十月一日
火影様より奇妙な任務を言い付かる。
受付所を介した正規任務でなく、あくまで火影様個人依頼という形。
内容は或る上忍の世話。火影様、詳細明言せず。
多少気に掛るも了承の意を伝える。
世話という単語から傷病療養の人物に付くものと想定。
明日より任務開始との事。
体力勝負と考え、早く休む事にする。




十月二日
火影様と共に火影屋敷内にある離れに赴く。
幾重にも強力な結界の張られた家屋、物々しい雰囲気。
すわ大事かと構える。心身過度の緊張。
火影様と共に離れ室内で案件の人物と対面。
艶のある銀髪。白磁にも似た肌色。
深い海の色を宿す瞳。櫻花色の唇。
閉じられた左目の上に走る傷を以てしても崩れぬ美貌。
淡緑の豪奢なドレスで際立つ細身の体躯。
古びたくまの縫い包みを抱き椅子に鎮座する相手、己と同年代と思しき見目。
但し、表情一切動かず能面の如し。
言葉を掛けるも返答なし。傍らに迫るも反応なし。
一見、人形と見紛う程。
ここにきて漸く火影様より仔細聞き出す事に成功。
相手、任務中に敵の奇怪な術を受け、里にて医療忍による解術実施。
しかしながら経過思わしからず。
意識有するものの、外的刺激に対する反応皆無。
目覚めながら眠っている、とは火影様の弁。
この案件、医療忍でない己の手に負えるか甚だ疑問。
火影様に問えば「お主はほれ、そういうちょっと面倒な輩の世話は得意じゃろう」と事も無げな回答。
犬の仔ないし猫の仔を任せるかの如き声調にも軽度の眩暈。
最終的に任務放棄は大罪と迫られ渋々任務従事を了承。




十月三日
相手の呼び名に頭を悩ませる。
任務上の機密に関わるのか、実名、火影様より伝えられず。
様々に案を巡らせた結果、相手の名『ナナシ』に決定。
因みに、過去己が名付けた犬の名『シロ』、猫『ミケ』、鳥『ピーちゃん』。
早速ナナシとコミュニケーションを取ろうと試みるも、失敗。
くまの縫い包みを抱き、椅子から微動だにせず。
声掛け、身体への接触(手足、頬を摩る等)、全てにおいて反応なし。
体温低く肌冷やか。
動かない分、ますます人形染みた様相。
ナナシ、供する食事に一切手を付けず。
口許まで運ぶものの口開かず。
零れた食物で汚れた衣服に、生じる着替えの必要性。
現在離れに居るのは己と相手のみ。
全身の発熱、及び烈しい動悸と息切れの症状。
直後、苛まれる疚しさに動揺。
しかしながら現状最優先すべきは何事か。
覚悟を決め衣服を脱がせた後、知れた衝撃の事実。
美貌のナナシは同性。
その後一日、項垂れた心持ちで過ごす。




十月四日
今回の任務の本分ナナシの世話と思い直す事、成功。
前日の衝撃よりどうにか立ち直る。
本日もナナシとコミュニケーションを試みるも失敗。
全てにおいて無表情、無反応。
椅子に腰掛け、虚ろに中空を仰ぐのみ。
食事、一切手を付けず。




十月五日
ナナシ、本日もコミュニケーション、食事共取れず終い。
昨日より腕に抱くくまの縫い包みにこそ表情があるように思えてくる始末。
午後、火影様を通じ医療忍来訪。ナナシに栄養剤の点滴実施。
今後改善の兆候がみられない場合、人員交代の可能性を示唆される。
暗澹たる思い。




十月六日
一日中雨。刺激になるかと影分身を用いて椅子とナナシを窓際に運ぶ。
雨の降る様にも特別反応なし。少々落胆。
降る雨と抱えるくまの縫い包みに、昔母親と口遊んだ『あめふりくまのこ』の歌を思い出す。
おやまにあめがふりました、から、さかながいるかとみてました、まで口遊むと感じる視線。
隣のナナシと目が合う。離れに来て初めての事態。
咄嗟に口を噤めば、凝っと此方を見る。
何某かを訴え掛ける眼差しに、再び歌い出せば聴き入る様子。
最後まで歌い終わると向けられる視線。暫く同じ曲を繰り返し歌う。
その後、急遽ホットイチゴミルクを調理。
温めた牛乳にイチゴジャムを溶かすのみの簡易な飲料、亡き母の思い出の味。
完成量、小ぶりのマグカップ一杯分。
少し冷まして此方が先に飲んでみせる。
感じるナナシの視線。
マグカップを手に握らせれば、湯気の立つ淡桃色の液体を凝視。
緊張の一瞬。
直後、ナナシ初めて何か口にするのを目撃。快哉を叫ぶ。




十月七日
ナナシ、此方の動きを目で追う。前々日迄を思えば格段の進歩。
喜ばしい反面、一挙手一投足を余さず捉える視線、居心地悪し。
射るような眼差しに眼力の存在、初めて認識。
食事は未だ取らず。
但し、供したホットイチゴミルクは好飲。
固形物をどう取らせるか、課題が残る。




十月八日
くまの縫い包みの片目、取れる。
ナナシ、片腕にくま、片手に黒い釦に似た目の部品を握り締め硬直。
常とは異なり、明らかに動揺している様子。
付け直すつもりで手を伸ばすも一向にくまを離さず。
くま、ナナシにとって大事なものだと理解。
代わりに握り締めた手を解くよう根気強く言い聞かせる。
渋々開いた手のひらから部品回収。
床に膝を付き、ナナシに抱かれたままのくまに目を付け直す。
位置、角度等、幾度も確認しつつ慎重な作業。
頭上からナナシの射るような視線。失敗は許されない。
黙々と針仕事を続け、無事作業完了。
目の付いたくまにナナシの表情輝く。離れに来て初めての事。
驚くも、微笑ましい。
本日、ホットイチゴミルクと共にイチゴジャムを混ぜたヨーグルト完食。イチゴ好物か。




十月九日
ナナシ、自ら椅子より立ち上がり、歩行。
思った以上にしっかりとした足取り。何かの奇跡を見る思い。
頬を抓ってみるも、痛い。夢ではない模様。
前日の件で何某かの変化があったか。
但し、軽鴨の雛宜しく何処に行くにも後を付いて回るのに辟易。
トイレにまで入室しかかる為待機を言い渡す。
くまの縫い包み片手に扉前での出待ち有。大層極まりの悪い思い。
本日、火影様を通じて生のイチゴを入手。
食卓に供するも食いつきは今一。
好みはジャム限定の模様。




十月十日
火影様に呼ばれ一時的に外出。
用事を済ませる間もナナシ気掛かり。兎角気が急く。
帰り際、火影様よりナナシ宛に荷物を預かる。
離れに戻るも、ナナシ傍に来ず。
声を掛けても無反応。無表情に椅子に腰掛け、微動だにせず。
以前の状態に戻ったか。
動揺し、必死にコミュニケートを図る。
或る時、ナナシの視線、此方の足許に向くのを確認。
動揺のあまり預かった荷物の存在、完全に忘却の彼方。
荷を解くや否や、ナナシ傍へ来る。
どうやら拗ねていただけの様子。安堵の息を吐く。
両人で荷物の中身を見分。その後、暫し絶句。
大半女性物の洋服他、女性用と思しき下着類。
血圧値急上昇及び鼻奥に鈍痛。
鼻を摘みつつ火影様に感じる心理的距離。
ナナシ、中からレース付きブラジャーを取り出す。
頭に被ろうとする為慌てて制止。リボンと勘違いか。
代わりに、入っていた絵本を手渡す。
ナナシ、絵本を手に持ち不思議そうな面持ち。
頁を開いてやり、絵を見せる。
添えられた文章を音読すれば、目を輝かせて聞き入る。
結局、数冊あった絵本を全て読み聞かせるまで解放されず。
本日イチゴジャムを塗ったトースト半分、ジャム入りヨーグルト、ホットイチゴミルクを完食。
機嫌も粗方直った模様。




十月十一日
ナナシ、朝から傍に纏わり付く。
何処に行くにも付き従い、此方の服の裾を掴んで離さない。
相当な念の入れ様。昨日の外出の件を引き摺ってか。
用事が片付かず苛立つも叱るに叱れず。
用事途中で諦め、カーペット敷きの床にナナシと座る。
尚くっつきたがる相手を両脚の間に挟み、背を凭れされる。
背後から抱き込む格好で絵本を読み聞かせ。
ナナシ、漸く安堵した表情。
絵本の中でも特に『シンデレラ』が気に入りの気配。
シンデレラは王子様と結婚し末長くしあわせに暮らしました
の下りにある花嫁衣裳に強い興味。
幾度も繰り返し読むよう促される。
本日此方の様子を真似、ナナシ通常の食事にも口を付ける。
但し、イチゴジャム関連のものに比べ食いつき悪し。




十月十二日
朝起きると室内大荒れ。
嵐が通り抜けたか、家探しでもされたか。
惨状にすわ敵襲かと身構える。
直後、惨状の現場より覗くナナシの顔。直ぐに構えを解く。
此方に駆け寄り、差し出された手の中に先日失くした安物のペン一本。
捜索の結果にナナシどことなく得意気な顔付き。
惨状はどうあれ相手の思いを無碍に出来ず。
謝意を述べて受け取る。
現状の改善を試みるも、ナナシ纏わり付き作業一向に進まず。
仕方なく絵本を読んで待つよう告げる。
結局、夕刻まで片付け三昧。
放っておかれた形のナナシ、完全に不貞腐れた様子。
絵本を読み、食事にイチゴジャムを用いた食物を供しても機嫌取り非常に苦心。




十月十三日
ナナシの眠る寝室より深夜に物音。直ちに寝室へ急行。
食い縛った口元。眉間に寄る深い皺。苦悶に歪む表情。
ナナシ、ベット上で眠ったまま手足を矢鱈と振り回す。
まるで何かから逃れようともがく様。悪夢でも見ているのか。
肩を揺すり、起こす。
瞼を開いたナナシ、涙目で此方を見、抱き付く。
締められる腕の力強さに少々困惑。
一方で、小刻みに震える身体の存在を知る。
回した腕で背を撫でれば、寝間着の布地が汗で湿る感触。
余程恐ろしかった模様。
哀れに思い、優しく背を撫で続ける。
暫し後、ナナシから寝息。
起こすのも躊躇われ、同じベッドにて就寝。




十月十四日
ナナシ、何事もなかったようにけろりとした顔付きにて起床。
平素通りの様子に安堵。
但し寝る間際、此方の服を掴みベッドまで引っ張られる。
仕方なく添い寝し絵本を読む。
眠ったところを見計らって離れようとするも、掴んだ服を離さず。
諦めて本日も同じベッドにて就寝。悪夢は見なかった模様。
ナナシの寝顔、案外幼いと新たなる発見。
一方で男二人には狭過ぎるベッドで少々寝不足。




十月十五日
朝起きると隣にナナシ居らず。急ぎ起き出し、捜索。
定位置である椅子の傍、窓辺に姿有。
膝下丈の白い洋風の寝間着に、頭部を覆う窓に取り付けられたレースのカーテン。
澄まし顔のくせ此方に何某かを訴える眼差し。
訳が分からず首傾げれば、ナナシもどかしげに手に持つ絵本を開く。
本は『シンデレラ』。作中の花嫁衣裳の真似かと漸く腑に落ちる。
似合う? と顔中でこちらに伺いを立てる様、微笑ましい。
似合っている旨告げればはにかむ様子、愛らしい。
食事量、徐々に増加中。




十月十六日
冷蔵庫を覗き、イチゴジャム瓶が無いと気付く。
前日に新しいものを入れたばかり。
隅から隅まで覗くが発見出来ず。
ふと、ナナシが纏わり付いて来ないのを不審に思う。
ナナシ、寝室にて姿を発見。
後手に何かを隠す素振り。
口の周りが真赤なのを目にし、問い質す。
漸く差し出されたジャム瓶、半分以上中身減少。
うっかり此方の胸が焼ける思い。
叱られると分かるのか、ナナシと視線合わず。
くまの縫い包みを胸に抱き、身の丈を限界まで縮めて床を見つめる。
唇はずっとへの字。
非常に頑なな様子。過去の己の姿を見るようで叱るのを少々躊躇う。
が、悪い事は悪い。
ナナシの目を見て懇々と諭す。
ナナシ、すっかり意気消沈。
食事も殆ど取らずこちらも消沈。
半分はジャムの所為か。
夜になっても悄気続けるナナシが憐れになり、同じベッドで眠る。




十月十七日
火影様よりナナシ用の着替えが新たに届く。
中身やはり女性物。ナナシの服装、火影様の趣味か。
心理的距離が広がりそうになるも、当人が好んで着用する事実。
ナナシ、男物の衣服及び忍服、見向きもせず。
時々此方も同性である旨、忘却。
双方共に意識改善の必要性。
遠方を眺める眼差しで以てナナシを見る。
ナナシ、新たな衣服に袖を通し済み。
スカートが裾に向かうにつれふわりと広がる洋人形風の淡水色の服。
全体の様子を見せるようにナナシ身体を回転させる。
スカートの下のシフォンが羽のように軽やかに翻る。
綺麗な色の布地と相俟って、まるで花が咲く様相。
見惚れていれば更に嬉しげに回ってみせる。
飽く事なく回転を続ける相手に、徐々に増す不安。
止めるか続けさせるか。
悩んだ直後、足を縺れさせナナシ壁に側頭部を強打。
一瞬の硬直の後、滂沱の涙。
床に座らせて具合を確認。頭に隆起した瘤有り。
可及的速やかに冷却。
冷却の間、此方の膝上に乗り上げる格好で抱き付かれる。
両足に掛る確かな重量。
途中で脚が痺れるが、我慢。
後々立ち上がろうとして足に力入らず。暫し途方に暮れる。
心配したナナシ、足を撫でてくれるも逆効果。一人声もなく悶絶。




十月十八日
午前中降雨。ナナシと窓の外を眺める。
『あめふりくまのこ』を口遊めば、ナナシ嬉々とした表情。
腕に抱くくまと共に身体を揺らしてリズムを取る。
一緒に歌う素振りを見せるも最後まで声出ず。
少しばかりもどかしそうにしていたのは良い兆候か。
本日、此方と同等量の食事完食。食については改善傾向。
但し、別個に眠ろうとすると潤み始める瞳。仕方なく同衾。
夜、僅かに魘されるも背中を撫でてやり収まる。




十月十九日
前日の様子を見、言葉を発するよう仕向けてみる。
火影様の話では元々喋れないのではないとの事。
言葉が戻ればより状態の改善が期待。
但し、簡単な質問ないし此方の呼び掛けに応えるよう振舞うも、失敗。
頑なに声を発しないナナシに半ば苛立つ心持ち。
言葉を発するよう迫れば床を踏み鳴らし全身で拒否。激しく興奮。
落ち着かせる為、腕を掴めば暴れる。今迄になく烈しい癇癪。
以降、此方の言う事を一切聞かず。道程は未だ遠い模様。
機嫌取りに今晩も同衾。これで一週間連続。




十月二十日
ナナシ、朝から不機嫌。
前日の件が尾を引くのか、一切機嫌直らず。
奥の手を使うことにする。
以前貰った絵本の内、しろくまがホットケーキを作る内容有。
『シンデレラ』と並び幾度も読まされる絵本の筆頭。
二匹のくまが一緒にホットケーキを食す場面で目が一際輝く事、確認済。
本ならびに過去母親が調理する姿の記憶を頼り、調理開始。
調理開始直後よりナナシ興味津々の顔付き。
遠巻きに此方の様子を窺う気配、気付かぬふり。
明らかにそわそわし出すも、見て見ぬふり。
我慢の限界か、遂にナナシ傍へ来る。
傍らにある絵本で何を作るか理解した模様。
すぐにボウルの中身を凝視。瞳、一気に輝きを増す。
矢鱈と手を出してくるものの、絵本のしろくま同様中身を零す為、遠慮願う。
フライパンで焼く際も顔を近付け過ぎる相手を身体でブロック。
ひと悶着の間に引っ繰り返したホットケーキやや濃い焦げ色。
火の加減が難しいと言い訳するも、ナナシ聞く耳持たず。
最早ホットケーキが世界の中心となった模様。
立ち上る甘い匂いを胸一杯に嗅ぎ、目を細める様、愛らしい。
出来上がったものにバターを乗せ、イチゴジャムと小瓶入りのシロップを用意。
ホットイチゴミルクも添える。
少し焦げあるホットケーキにナナシ御満悦の表情。
但し、ジャムと共にシロップを一度に瓶の半分近く使おうとする為、慌てて止める。
今晩もナナシと同衾。最早一人寝する気配皆無。




十月二十一日
火影様より箱入りの高級な菓子届く。
ナナシ甘味を好むと報告した為の措置の模様。
ナナシ、菓子より箱に十字に掛る赤リボンに興味津々。
解いたリボン、くまの縫い包みの首に結ぶ。
茶色の毛並みに映える艶やかな赤。
ナナシ大層ご機嫌。得意気にくまを抱き上げる姿は微笑ましい。
余ったリボンでナナシの髪を括る。
鏡を見たナナシ大喜び。部屋中くまを片手に跳ね回る。
興奮が頂点に達したと思しき時、足を滑らせ派手に転倒。
直後、滂沱の涙。
泣き止まず、宥めるのに往生。




十月二十二日
別の部屋で用事を片付ける最中、ナナシやって来る。
しきりと服を引っ張る為、邪魔をしないよう注意。
直後、再度服を引っ張られる。
厳重注意必要か。
改めてナナシを見遣れば此方を見て口が開く。また閉じる。
開く、閉じる、開く、閉じる。
金魚にも似た不思議な光景。此方が首を捻るのとほぼ同時。
「い、ぅ……か」
何度目かの開閉の後、聞こえてきた小さな音。綺麗な声。
驚きナナシを見つめれば、改めて引っ張られる服。
此方に来い、という意志表示の模様。
ナナシに連れられ別の部屋の窓際へ移動。
外を見遣れば空に綺麗な虹。
「きれいだ」と呟けば、無邪気に笑うナナシ「きえい」と答える。
感無量。
思わずナナシを抱き締める。
その後もぽつぽつと喋る。
火影様に声が出るようになった旨、報告。




十月二十三日
声が出て、ナナシ此方と会話を試みる素振りをみせる。
但し会話は成り立たず。語彙少なく、発音も怪しい。
指差しで物の名を訊ねられ、都度教える。
ナナシ、言葉を覚えたての幼子の如く一々繰り返す。
「いぅか、えほん」「いぅか、くま」「いぅか、いちご」
物の名称と共に何故か付加される『いぅか』という此方の名。
未だ会話未満の片言。
それでもナナシは此方の名を呼び、話そうとする。
不意に胸が熱くなり、込み上げるものを堪えるので精一杯。
其処に止めの一言。
「いぅか、すき!」
容易く涙腺は崩壊。
止まらぬ涙にナナシ戸惑った表情。宥めるように頭を撫でられる。
常は此方側がする行為。妙に可笑しい。
「おれもすきだよ」と告げればはにかむ。
ナナシが可愛く見えて仕方がない。




十月二十四日
ナナシ、色々の事を一人でやりたがる。
着替え、歯磨き、洗顔、櫛を用いての整髪、箸での食事等。
覚束無い挙動に手を出したくなる度、深呼吸。
失敗しやり直す度に胸裏で唱える、『見ざる、聞かざる、言わざる』の呪文。
今迄手を貸していた事を止めるというのは地味に消耗する。
しかしながら少しずつ快方に向かっているのも実感。
ナナシ、夜に一人で絵本を読む。
読み聞かせようとして拒まれ、困惑。




十月二十五日
ナナシ、食器を割る。
食事の後、食器を運ぶ際に手を滑らせた模様。
「ごめんなさい」
自ら謝り、破片を片付けようと動く。
悄気た様子ながらも一切泣かず。
立ち竦む、もしくは泣いて縋り付くと予想していた分、驚く。
危険な為破片は片付けたものの、此方を手伝おうとする。
ナナシの表情、心なしか大人びてきた様子。
言葉も明確で会話が成り立つ。
日毎に急激な成長、もしくは回復を実感。
心中俄かに複雑。




十月二十六日
ナナシ、以前のように纏わり付かなくなったと感じる。
日常の光景だったトイレ前の出待ち、服を引っ張る、抱き付く等もない。
屈託なく笑い、くるくるとよく変わる表情。
無表情な人形染みた姿、既に過去の出来事の様相。
一寸前に出来なかった事が出来る、という事柄自体に驚かない。
自ら考え、動くのにも戸惑いを覚えない。
時折、生意気な口を利くのも慣れた。
元々口達者だったのかもしれない。
いずれ言い負かされる日も近いか。
本日、遂に同衾も断られる。
快方に向かうのはあっという間なのか。
喜ばしい筈だが、どこか引っ掛かりを覚える。




十月二十七日
ナナシ、離れに収蔵されていた巻物に目を通す姿、目撃。
服装は相変らずだが浮かぶ表情は一端の忍。
其処で不意に覚える違和感。
ナナシ、くまの縫い包みを抱えておらず。
傍にも見当たらない。
今迄、肌身離さず持ち歩いていた筈。
考えられない事態に己の知るナナシの姿が崩れていく感覚。
幼子のように無邪気だったナナシ。
何彼につけ纏わり付いてきたナナシ。
誰より可愛かったナナシ。
このまま成長が止まれば良い、との思い過る。
直ぐに己の愚考に失笑。
従事する任務の失敗を望むかのような己に嫌気。
お役御免も近いと感じる。




十月二十八日
ナナシ、此方と同じ服を着たがる。軽く衝撃。
強請るのに負け、着替えとして持ち込んでいた忍服上下を貸す。
手足が長い所為か、己のものでは袖丈、裾丈共に寸足らず。
相手が己より小さいという認識崩れる。
一方、浮き出る身体の線に同性である事実、再認識。
忍服を身に着けた途端、ますます普通の忍、普通の男の姿に映る。
己の知るナナシの姿、其処に在らず。
面識のない人物に相対した際と同様の心境に愕然。
ナナシが何某か話し掛けてきたが、碌に答えられず。
言葉が耳を上滑り。
心配気に顔を覗き込まれ、気拙さばかり募る。




十月二十九日
火影様よりナナシのみ呼び出しを受ける。
状態改善の報告の為か。
離れに戻ってきたナナシ、塞ぎ込む様子。
声を掛けるも「大丈夫」の一点張り。
此方が踏み込む事を許さない空気。
ナナシをますます遠くに感じる。
己が知るナナシはもう居ないのかもしれない。
事実が実感として湧き上がる。




十月三十日
火影様より呼び出しを受け、執務室を訪れる。
任務を拝命した際と変わらない状況にてナナシを医療忍の元に戻す旨告げられる。
ナナシ動揺の原因、漸く判明。
但し最善の判断である事、疑う余地なし。
火影様に全てを委ねる旨意伝える。
明日中に離れからの退去命令。返答は無論、諾。
未だ実感は湧かず。
しかしながら胸裏に広がる奇妙に清々とした心持ち。
長いようで短かった日々を思い返す。
寂しくないと言えば間違いなく偽り。
次に会う機会があるとして、ナナシという人間はもう居ない事実。
唯一の心残りはナナシの本当の名を知れない事か。
それも仕様がないと己を納得させる。
最後はナナシに笑って別れを告げると決意。
間違っても無様に泣く面等見せぬよう。
ナナシにとって、また己にとっても良い記憶として残るように。





 ※   ※   ※   ※





「何見てんの?」
不意に掛けられた声に、身体がびくりと竦み上がる。
部屋には自分一人きりの筈で、先程から気配も物音ひとつも感じられなかったというのに。
……まあ、相手からすれば不法侵入なんてお手のもの、なんだろうけれど。
諦め半分に振り向けば、そこには予想通りの人物の姿があった。
「オレが昔書いた手記を医療忍向けの研修資料に使いたいと火影様に言われたんです。だから一回、中身を確認して欲しいらしくて」
「ふぅん」
軽く答えながら、相手は肩越しにオレの手元を覗き込む。
そのまま肩に顎を置かれ、ついでにオレの身体を背後から抱き込む格好を取る。
非常に動き辛いが、この体勢こそ相手の気に入りと知っているから好きにさせる。
「アンタ、こんなの書いてたんだ?」
「まあ、一応」
最初は火影様への報告書の為に書いていた手記。
但し後半は殆ど自分の為に書いていた。
忘れたくなかったから。ナナシと過ごした日々を、全部。
でもあまりに個人的な感情が入り過ぎているのが少々気に掛る。
このまま資料にされて皆に見られるのは結構恥ずかしいんじゃないだろうか。
「ねえ、これってさぁ」
「なんですか」
「オレ達の出会いからの軌跡っていうか。寧ろ愛のメモリーだよね」
「……はい?」
「イルカがオレにこんなにも献身的に尽くしてくれたのってやっぱり愛の為せる業でしょ。だから愛のメモリー」
「さらっと気持ちの悪い事を言わんでくださいよ……」
真顔で告げられる言葉に脱力せざるを得ない。
大体、これのどこが愛のメモリーなんだか。
書いた本人としては単なる世話記録としか思えないのに。
そんなオレに対し、相手はあからさまに顔を顰めてみせた。
「酷い言い様だーね。それにオレ、この後アンタにプロポーズしたじゃない」
「プロポーズ、ねぇ」
あれをプロポーズと呼んで良いならば、だけど。
そう内心で一人言ちる。
火影様の屋敷から戻った翌日の朝、オレの寝室に思い詰めた顔のナナシが立っていた。
膝下丈の白いネグリジェに、頭には窓から外したと思しきレースのカーテンを被った出で立ちで。
前夜様々な事柄を考え過ぎて眠れなかったオレはその時、完全に寝不足状態だった。
眼前の珍妙な取り合わせの服装を目にしても、見た事のある格好だな、と半分寝惚けた頭で思った位。
そんなオレに告げられたのがこの台詞。
「おれをいるかのおよめさんにして!」
顔を真赤にして、ちょっと涙目で、両手でぎゅっとネグリジェを掴みながらの、求婚。
思い詰めた末らしいあまりに必死な形相と言動に、オレもつい。
「ナナシもオレも、もっと大きくなって、結婚出来る歳になったらな」
なんてあまり深く考えずに答えていた。
でもそれはあくまで社交辞令の一環というか、ナナシを悲しませたくない一心で出た言葉。
子供に対し、大人がよく使う手のひとつ。
けれどナナシは瞳を輝かせ、酷く嬉しそうな顔をした。
―――…まさか数年後、その言葉を本気に取って迎えに来た相手に驚かされるとか、そのまま傍に居座られて嫁を貰った筈の自分が受身に回る事になるとは露程も考えなかったけど。
「大体、オレがプロポーズを受けたのはナナシ相手であって、決してアンタじゃないんですけどね」
「ナナシもオレも同じ人間でしょ」
「中身が全然違うんですよ。アンタとナナシは」
数年後、オレに会いに来た相手はすっかり変わり果てていた。
見た目も然ることながら、主に中身が。
可愛気というものが完全に失われ、傍若無人な振る舞いが目に付くようになっていた。
所構わず自分のモノだとオレの所有権を主張し、独占欲を剥き出しにする。
酷い束縛と拘束の所為でこちらが随分肩身の狭い思いをしていると気付いているだろうに、一向に改めない。
いつだって一生懸命で可愛かったナナシは一体何処へ行ってしまったのか。
「さっきから聞いてればナナシの肩ばっかり持って。アンタ、もしかしてショタコンの気でもあるんじゃないの?」
「……人の綺麗な思い出を汚すの、止めてくれませんか」
自然と、眉間に皺が寄るのを感じる。
言うに事欠いてかもしれないが、碌でもない。
そもそも言って良い事と悪い事があるだろう。
時々、この人はナナシとの思い出にすら嫉妬するんだ。
了見が狭いというか、嫉妬深いというか。
同じ人間に嫉妬していれば世話ないといつも思う。
それでも一向に収まらない様子の相手にオレはひとつ溜息を吐いてから。
「確かにオレはナナシが大好きでしたよ。でも、今一緒に居るのはアンタでしょう。オレはどうでもいい相手と情けだけで一緒に居る程、出来た人間ではないつもりなんですが」
嫉妬深い相手にあらぬ嫌疑を掛けられ、散々な目に遭っても。
あまつ周囲への執拗な牽制により、自他共に様々な被害を受けても。
オレは今迄ずっとこの人の傍に居た。逃げも隠れもせずにこの人と向かい合ってきた。
……この意味が分からないっていうなら今すぐぶん殴ってやる。
そういった意気込みで告げた言葉に、相手の機嫌があからさまに良くなった。
「それってさ、イルカもオレを愛しちゃってるって事だよね」
「さあ、どうでしょう」
「何よ、今更照れなくても良いってば」
でれでれと脂崩れた顔で言われる。
きっとオレの気持ちなんて相手には最早バレバレなんだろう。
「でもね、あの時アンタがナナシであるオレを愛してくれてた事、ちゃんと胸の中に残ってるんだよ。アンタの手や、声や、温もりや、色んなものでオレを包んでくれてたのも、みんな。ずっと忘れられなかったし、忘れたくなかった。アンタが結婚出来る年齢になるのをオレがどれだけ心待ちにしたか分かる?」
熱を帯びた口調ではあったが、内容が内容だけに奇妙な可笑しみを覚える。
オレがカカシ≠ニいう相手の本当の名を知ったのは随分後になってからだった。
カカシは予想通り暗部出身で、しかしながらその割にやけに名が通っていた。
下忍から中忍となり、内勤のアカデミー教師となったオレにも噂が届く位には。
様々に齎される噂を耳にし、自分とは住む世界が違う人だと感じた。
だからオレは二度と関わりなんて持てないと思い込んでいた。
このまま、ナナシとの事は良い思い出として終るのだとすら。
なのに、この現状。人生何が起こるか分からない、というのは本当らしい。
「ちょっと、何笑ってんの」
「いや、なんか不思議だなと思って」
「不思議って。それどういう意味?」
「そうですね。こうしてアンタと普通に喋っている事だとか、アンタの中にちゃんとナナシとの思い出も残ってるって知れて、不思議で嬉しいです」
ふとした時、オレはこの人の中にナナシの存在を感じる事がある。
ちょっとした仕草に、言動に、態度に。
同じ人間なんだから当たり前かもしれない。
でもだからこそ、オレはこの人から離れられないんだろう、とも思う。
オレが好きなのはカカシ≠ナありナナシ≠ナもあるこの人だから。
けれどオレの言葉に、相手の顔には少しばかり複雑そうな表情が浮かぶ。
「ねぇ……やっぱりそれって、アイツのプロポーズの所為?」
「何の事ですか」
「だってプロポーズって一生に一度でしょ。ナナシとオレは同じ人間だけど、あの時はまだ殆どナナシの状態だったし、その所為でアンタはナナシの事ばっかり言うし。オレとしてはしまったなと思うワケよ」
「はぁ」
「だから、もう一回ちゃんとやり直したいんだーよね!」
などと一気に捲し立て、相手が印を切ってみせる。
ぶわりと立ち上った煙が収まった後、相手はこちらと向かい合う形で正座をしていた。
但し、その格好を目にしたオレは絶句する事になる。
膝上と思しきスカート丈の純白のドレスに、頭には細かい模様の入った繊細なレースのベール。
そう、相手は何故かウエディングドレス姿だったんだ。
昔の、ネグリジェとレースカーテンよりグレードが格段に上がっているのは間違いない。
しかしながら、以前より歳を重ねている所為で色々と厳しいことになっている。
というか、見るに堪えない。ある意味視覚の暴力だ。
ドレスから覗く肩や胸元、またガーターベルトで止められた白いタイツから覗く腿はむっちりと筋肉質。
中性的な容姿も忍として鍛えられた今現在の体格では見る影もない。
パッと見、まるで下手な女装の域だった。
せめて衣装だけでなく身体付きも戻してくれたら良かったのに。
なんか頭痛くなってきた……。
「オレをイルカのお嫁さんにして! ていうか、今すぐ結婚してオレと末長く幸せになってよ!!!」
言っている本人は至って大真面目な様子だった。
張り合い方が子供染みているのは既に諦めている。
でもそれにしたって幸せになろう、じゃなくて、なってよってどんだけ強引で独り善がりなんだか。
大体、男同士で結婚もクソもないだろうに。
この人はどうしようもなくバカだ。
けれど、バカだと思うのと同時に可笑しくもなる。
ナナシの時も、今でもずっと変わらずに、自分の持てる最大限の力で以てこの人はオレに愛を告げてくる。
きっと本当にオレの事が好きなんだろう。
それが分かるから尚一層可笑しい。
「あーもー、本当バカ」
くつくつと堪え切れない笑いを漏らせば、「どうせバカですよ」と不貞腐れた様子で相手の頬が膨らむ。
ただ、そういうところは嫌いじゃない。というか、寧ろ。
「結婚は無理ですけど、末長く、の方なら考えなくはないです」
この言葉に相手の表情が一気に輝きを増す。
そこにナナシの面影が重なって見えた。
やっぱりこの人はカカシ≠ナありナナシ≠ネんだ。
どれだけ年月を経ても、それにつれて見目が変わったとしても。
なんてことを考えている内に、いつの間にか畳の上に押し倒されていた。
見上げる視界に相手の顔が映り込む。
ウエディングドレスを着たままで向けられる、いやに興奮し切ったギラギラと底光りする眼差し。
ついでに、乗っかられた脚に当る不穏な気配。
えーと、なんだろうこの状況。
「あの、カカシさん?」
「やっぱりさ、しっかり思いを確かめ合った後にやる事っていったらひとつだよね!」
一応、顔に笑みは浮かんでいたが、それは多分に他意のありそうなものだった。
間近で吐かれる息も心なしか荒い。
「……オレ、嫁に抱かれる趣味はないんですけど」
「細かい事は良いじゃないの。オレ、旦那さまにはトコトン尽くして尽くして尽くしまくる方なんだから。最上級のご奉仕、体験してみちゃう?」
相当頭の悪い事を宣いながら、上から圧し掛かられる。
というか、嫁とかウエディングドレスのままっていうのは既に決定項なんだな……。
あまりに倒錯的な現状に、畳の上に寝転んだ格好でも眩暈を覚えずにいられない。
でももうこれは色々積極的な嫁を貰ったと思って諦めるしかないんだろうか。
手慣れた様子でこちらの服に手を掛ける相手を眺めながら他人事のように思う。
そんな状況でも、愛想が尽きるだとか嫌いになれる気がしないのだから性質が悪い。
仮にこれが病気なのだとしたら症状はさぞや末期的に違いない。
「すき。いるか、すき。だいすき」
啄ばむように顔中にキスを落としながら、繰り返される言葉。
どこか舌足らずにも聞こえるそれは、懐かしい甘さを帯びた響きで。
それにナナシを思ったら、もうダメだった。
途端に何をされても皆許したくなってしまう己に苦笑いが漏れる。
嫉妬深くて束縛しいで、自己中で。
碌でもない人間だと知っていても尚、オレはどうしたってこの人に甘いんだ。
多分、相手もその辺りを分かってやっているんだろう。
ならばオレの症状は既に手遅れの段階か。
……でも、バカで手の掛る子程、可愛いと言うじゃないか。
そんな事を考える間にも、不埒な手が晒された素肌の上を滑り、着実にオレの熱を上げていく。
つられたように息が上がり、乱される予感に背筋が震える。
―――このまま、流されてしまえば良い。
そう、耳元で囁くもう一人の自分の声を聞けば自然と身体から力が抜ける。
身を委ねるつもりで、オレはベール越しに相手の首筋にそっと腕を回す。
相手は心得たように腕の付け根へと恭しい仕草で以て口吻けを落とし、痕を残す。
その痕はイチゴジャムより赤く。
そこからジャムよりずっと甘く、蕩けるような痺れが全身に広がるのを、オレは心地良く感じていた。







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