9.ずっと

【或る夢の話 】




腐りかけの果実に似た、甘ったるい匂いが空気中に漂っていた。
そして、左の目の奥がずっと痛んでいた。
痛み自体は大したものでなかったが、それは微かに、また完全に無視出来ないほどの存在感を有して続いていた。
それが気になっているというのに、オレは一切手立てを講じようとは思わなかった。
病院に行くのは面倒くさいし、それに場所が場所だけに少し怖い。
そんなことを考えながら、何気なく閉じた瞼に触れる。
あくまでそっと触れたつもりの指は、簡単に薄い皮膚へと食い込んでいた。
同時にその下にある眼球が指の形に合わせてへこむ感覚。
つられて痛みが増し、甘ったるい匂いも強くなる。
そこで漸く、この匂いがオレの左目からしているのだと気付いた。
目からこんな匂いがするなんて、今まで聞いたことがない。
オレの左目は一体どうなっているのだろう。
首を傾げていると、傍で一部始終を眺めていた彼がじっとオレの左目を覗き込んできた。
そして、一言。


「ああ、大変」


さして大変そうでもない様子の彼は、当たり前のことを告げる時の口調で以て続ける。


「これ、腐りかけてますね。今すぐ取らないと、健康な部分まで腐りますよ」


そう言った彼は、その手に持っていたものをオレの目の前に翳した。
猛禽の爪のように研ぎ澄まされた、先端が鋭く尖ったそれはピンセットだった。
蛍光灯の青白い光を弾いて鈍く輝きながら、まるで獲物を狙うように彼の手の中でゆらゆらと蠢くその切っ先。
それが真直ぐオレに向いた次の瞬間、左の眼球をがっちり掴まれていた。
柔らかな膜に爪の食い込む感触が、頭の天辺から爪先に至るまで、全身にもれなく伝わる。強い衝撃を前に、それが痛みなのか、はたまた快感なのか、判断がつかない。
爪が深く食い込んでいる所為で、甘ったるい匂いが空気中により濃厚に漂っていた。頭の芯がくらくらするのは、匂いに酔ってしまった所為かもしれない。最早、まともにものが考えられない。
その間にも、眼球はぐいぐい前方へと引っ張られている。
全くもって容赦のない力だった。このまま眼窩から引き摺り出されるのも時間の問題かもしれない。
それでもオレは何もせず、彼に、ピンセットに、眼球を委ねている。




しかしながらある時、全てはあっけなく終わりを迎えた。




まず、ぷちゅ、と瑞々しい果肉を指で押し潰した時のような音がした。そして、とろりと生温い液体が眼窩内とその外へ流れ出すのを感じた。
すると更なる力を篭めて、ピンセットが前後左右へぐりぐりと動かされる。




「・・・取れましたよ」




そうあっさり言うと、彼はピンセットの先をオレの目前に突きつける。
そこには、ぺしゃんこに潰され赤茶色に変色した、オレの元左目だったものが摘まれていた。
けれど突きつけられたものを、オレは怯えるでも憤るでもなく、ただ静かな心持ちで眺めていた。
不思議と清々した気分だった。
空っぽになって陥没した左の瞼が、不自然だとは思わなかった。
寧ろ、それが至極当たり前のことのように思えたのだ。




――――左の目に収まっていたのは、大事なもののはずだった。
ずっと大切にしたいと思っていた。
失うことは考えられなかった。
でも、本当は違っていたらしい。
オレはこの目が、ずっと邪魔だったんだ。






そう思ったところで目が覚めた。
ぱちぱちと幾度が瞬いた後、オレはすぐに左の瞼に触れる。
薄い皮膚の下、眼球には指を押し返す弾力があって、簡単には潰れそうになかった。
ひくひくと鼻を動かし、空気の匂いを嗅ぐ。
もう、何の匂いも感じられない。
それらを確かめた後で、何故かオレは奇妙に胸が詰り、そのまま少しだけ泣いた。
嬉しいのか、悲しいのか、それすらよくわからずに。
声を殺して、静かに泣いた。






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