忘れじの花

累説 其の壱




エチレフリン塩酸塩  棚 无2  2本
ジブロモビフェニル   棚 无2  1本



室内の壁という壁、空いたスペースというスペースを覆い尽くさんばかりに並べられた棚に、様々な色と形とを成す薬剤瓶が隙間なく詰め込まれている。それらの瓶ひとつひとつを、サクラは根気強く手元にある台帳の写しと照らし合わせていく。
記載された棚番号と数量に誤りのないことを確かめてからペンでチェックを入れ、また別の手を瓶に伸ばす。延々と繰り返されるその一連の動作の合間に、深く長く息を漏らすと再び、新たな瓶に手を伸ばす。


サクラが綱手に命じられ、私設の薬剤倉庫に収められた薬剤の実在数と台帳記載数との照らし合わせを始めてから彼是一週間が経過していた。その間、埃と薬剤の匂いとが入り混じる閉鎖された空間で、毎日朝から晩まで一人きりの作業が続いている。
倉庫に収められた薬剤の数は膨大だ。単純に薬の材料だけでなく、新薬の実験等に用いられる薬品までも事細かく記載された台帳は下手な辞書と同等の厚さを備えている。サクラの背より余程高く、また横幅もある棚を上から下まで漏れなく確かめていくだけで、はじめは眩暈のようなものを覚えたほどだった。
しかし永遠に続くのではないかと思われた作業も、気付いてみれば残すところ棚ひとつ分となっている。


この作業を始めてからサクラが何に一番堪えているかといえば、日の光も外の空気も入らない閉ざされた空間の中では時間の感覚やその認識と共に、記憶力すら怪しくなることだった。
棚に向かって黙々と作業をしている最中、ふと己が今何処に居て、一体何の為にこの作業を行っているのかが綺麗に頭から抜け落ち、度々ひやりとさせられた。
その都度、飛散した記憶を必死に掻き集め、ここに至るまでの経緯と置かれた状況とが寸分の狂いなくぴたりと符合するまで、己の存在がまったく不確かで曖昧なものにでもなったかのように強い不安に苛まれた。
このまま作業を続けていれば、その内本当に何も思い出せなくなる時がくるのでは。そう考えて薄ら寒い思いもしたが、どうやら心配は杞憂に終わりそうだ。
そんなことを頭の片隅に浮かべながら、サクラは手を伸ばし、次々と瓶のラベルを確かめていく。




トリヒドロキシビフェニル   棚 无2  1本
フタル酸ジンクロヘキシル  棚 无2  3本




その時、籠った倉庫内の空気がゆるり、と動いた。
直後、背後に気配を感じたサクラは反射的に身を硬くする。
貴重な薬剤を数多く収めるここは、綱手の手により厳重な結界が張られている。そして綱手は現在、里外へ外遊に出掛けて未だ戻っていない。私設の倉庫を訪れる者は、サクラ以外には居ない筈なのだ。
背中に全神経を集中させ、サクラは相手の気配を探る。
但し、ぴんと全身に張り詰めた緊張はすぐに解かれることとなった。微塵の敵意も感じられないそれは、サクラにとって馴染みのある相手のものであったのだ。
相手がわかれば、消されない気配が配慮によるものであると想像に易くなる。
向こうが本気を出せば、サクラではまず気配を掴むことは不可能だった。空気中を漂う塵芥の如く其処に在りながらも、その気配は完全に空気と同化し、人には無きものとして捉えられるような者、が相手では。


「お邪魔するよ」


のんびりと、間延びしたような声が背中越しに掛けられる。
予想した通りの声音にサクラはそっと息を吐いてから、チェックの漏れていた手元の写しにペンを走らせる。
「・・・あんまり驚かさないでくださいよ」
サクラの言葉に「悪―いね」と口に出しながらも、相手からは悪怯れた気配は伺えない。ただそれは、サクラが下忍の頃から少しも変わらない様子でもある。
「それにしても、よくここに入れましたね」
「まあ、オレくらいのレベルになると、どこでもフリーパスみたいなモンだから」
緊張感の欠片もない声で告げられる内容に、しかしサクラの眉は自然と顰まった。嘘か真か、虚か実か。ただ、問いかけたとしてものらくらと躱されて終わりだろう。相手の真意は、いつだって掴み辛い。
「なんか大変そうなことしてるじゃない。手伝おうか」
「ううん、もう少しで終わるから」
「そう、じゃあちょっとここに居させて」
そう言うと、相手はのそのそと音でもしそうな態―――勿論実際には音など僅かもしない―――で、サクラの横を行き過ぎる。そしてサクラが向かい合う棚と、隣合う棚との隙間にその長身を押し込むと、長い手足を折り畳むようにして床に腰を下ろした。不自然な形である筈のそれがいやに嵌って見えることに、サクラは一人感心する。
視線を棚に戻した後も、視界の端に蛍光灯の青白い光を弾く銀の髪が映り込む。
いつもは見上げるばかりのそれが、今はこうして己の目線よりも低い位置に在るという事実に、サクラは奇妙な可笑しさを覚えた。
手を伸ばせばそのやわらかそうな髪に触れられるだろうかと考え、すぐに無理だろうと思い直す。無防備な様子に見えても、そこに一分の隙もないことはサクラにもわかる。もし今、敵から何がしかの攻撃を仕掛けられたとしても、涼しい顔で迎え撃ち、返り討ちにするだろう。そもそも己とは忍としての格が違うのだ、このはたけカカシという人物は。
そう余所事を考えながらも、サクラは作業を続ける。




デキストロメトルファン   棚 无2  1本
硝酸デヒドロコリダリン  棚 无2  1本
ペンタクロロフェノール  棚 无2  2本




カチャカチャと瓶同士が触れ合う音。
身体を動かす度に生じるささやかな衣擦れの音。
捲られる紙と、ペンがその上を滑る音。
静寂に包まれる倉庫内にある音らしい音は、皆サクラが立てている。
音もなく佇む相手は、視界に入っていなければまるで漂う空気のように今にも室内へ馴染みそうだ。
ちらりとサクラが視線を向ければ、片方しか覗いていない瞳はぼんやりと虚空へ向いていた。まるで心ここに在らずと言わんばかりの、その眼差し。
「帰らなくていいんですか?」
サクラの問い掛けに、ここに来てはじめてカカシの視線を感じた。
深い海の色を想わせる濃い青の瞳が、真直ぐサクラに向いている。
「今日誕生日なんでしょう、イルカ先生」
「よく知ってるね」
珍しく驚いたような声を出すカカシに、サクラは手に取った瓶に視線を戻してあくまで素っ気なく告げる。
「ナルトが言ってたから」




メチルメルカプタン  棚 无2  1本
ジニトロフェノール   棚 无2  2本
イソシアナトメチル   棚 无2  1本




「・・・うん、そうなんだけどね。でも先約のお陰でフラれたよ。もうあの人、それ以外は目に入ってなかったから」
相変らずのんびりとした物言いで告げた後、ぽつりと零された言葉。
「あいつをけしかけたのは、サクラ?」
咎める色のない、ただ事実を確かめるような調子は逆に、サクラが抱える内圧を増幅させる結果となった。胸裏がざわざわと、不快に波立つ。
次いで生じた胸苦しさ緩めるように息を吐くと、サクラは静かな声調で答える。
「そんな大層なことはしてませんよ。今、先生が座ってるところに同じように座ってたヤツが居て、愚図愚図鬱陶しかったから『さっさとどこでも行け』って言っただけ」
その言葉に、視界の端でひっそりとカカシが笑う。
僅かに眉を下げ、どこか困ったようにも見える様は、サクラが下忍の頃から少しも変わらないカカシの笑い方だった。
過去幾度となく目にしている筈のそれに酷く苛立つのは、サクラの内面を見透かすかのようで疎ましいからだ。
そして何より―――胸の奥深くに沈む想いをカカシには知られたくないと、思うからだ。




チオアセトアミド   棚 无2  2本
ジメチルアリニン  棚 无2  1本
トリエチルアミン   棚 无2  1本
アクリロニトリル   棚 无2  1本




「ねえ、サクラ」
「なんですか」
呼び掛けに答える声が尖ったのが、サクラ自身にもわかった。
それでも既に口に出したものを戻すことなど出来はしない。
余計に苛立つものを覚えながら、乱暴に取り出した薬剤瓶が傍の瓶にぶつかってカチンと一際高い音を立てる。
その中にあっても、カカシの低く通りの良い声は、はっきりとサクラの耳に届いた。
「難儀だね、お互いに」
どういう意味かと問おうとしてサクラは唇を開いたものの、結局何を口にすることもなく閉じる。
カカシは知っているのだろう。サクラの心も、その想いも。また、ナルトへ向ける本当の感情でさえも。
けれど、サクラにもこれだけは言える。
「さあ、私は難儀と思ったことはないですから」
サクラは今迄一度たりとも、それらを難儀などと考えたことはなかった。
それが一方的で、相手には決して届かないものであったとしても。
抱える想いが報われることのない、一縷の望みすら見出せないものであったとしても。
きっぱりと言い切ったサクラに、僅かの間を置いて「そう」と短い返答がある。
そっと見遣ったカカシの顔には、いつもと何ら変わりのない平らかな表情がある。元々、感情をあからさまに表へ出す相手ではない。忍であれば当然の心得であるのだが、それを今、サクラは少しばかり残念に思った。


「それが終わったら、美味しいものでも食べに行こうか」


唐突に、カカシは言う。どうやら、先程までの話を蒸し返す気はないらしい。
それに、肩から力が抜けるのを感じて、サクラは驚く。力が入っていたということにすら全く気付いていなかったのだ。
どうやら無意識だったらしいと悟って、可笑しくなった。
こんなことで緊張するなんて、らしくない。
「いいですけど、勿論先生のおごりですよね?」
「・・・しっかりしてるねぇ」
「私みたいな可愛い部下を付き合わせるんだもの、そのくらいはしてくださいよ」
軽口めいて告げれば、視界の端でカカシが笑う。
はは、と微かに声を立てる様に、この人も普通に笑うんだな、と奇妙な感慨を抱く。しかしそれは決して悪いものでなく、己の表情も自然と緩んでくるのをサクラは確かに感じていた。





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