ススム |

● いつもふたりで。 --- 前篇 ●




それを目にした時、はじめわたくしは何かの間違いではないのか、と思わずにいられませんでした。
幾度も瞬きを繰り返し、ごしごしと目を擦ってから改めて据え置かれた現実を眺めても、やはり素直に信じることが出来ません。
乗り上げた台の上で精一杯身体を捩り、片足を持ち上げてもみましたが、目前に指し示された事実は微塵も揺らぐことはありませんでした。
「・・・うーん」
思わず声が漏れるわたくしの眉間には、自然と皺が寄っていました。
足の下に蹲るアナログ式の体重計は、わたくしが以前より3.8―――・・なんて、こんなところでサバを読んでも仕方ありません。正直に言いましょう、4キロほど多い値を示していました。丁度お風呂上がりで裸のままでしたから、服の所為にすることも出来ないのです。
どうりで最近、ジーンズやパンツがやたらきついと感じる訳です。お腹全体が以前よりぽっこりと膨れているように見えるだけでなく、実際余分な肉を指で容易く摘まめてしまうのです。
傍にあった洗面台の鏡を覗き込めば、心なしか顔全体がむちむちと張って、輪郭すら丸くなっているよう。今迄どうにか気付かないフリをしていたのに、こうしてばっちり数値で出てしまえば最早それも不可能です。
勇気を出して見つめた現実は、なんと恐ろしいものでしょう。わたくしは途方に暮れるばかりでした。
原因として思い当たる節は山のようにあります。仕事でのグルメリポートにはじまり、クリスマスやお正月、バレンタインといった一連の行事。
そして最大の原因は・・・何を隠そう、恋人であるガチャピンの存在。
「ムックって、本当に美味しそうに食べるよね。見ててうれしくなるよ」
なんて言って、いろいろなものをお土産として買ってきてくれるのです。
チョコレートやケーキ、アイスクリームにドーナッツ。それを素直に、また喜んで食べていればむちむちとしてくるのは当たり前です。もしかしたらガチャピンはとっくにわたくしの変化に気付いているのかもしれない、と思えば焦る心だって湧いてきます。
何故ならガチャピンは、華奢な子が好きだからです。
過去、「可愛い」とか「良いよね」と口にした相手は決まって、小さくて華奢で思わず守りたくなるようなタイプばかり。
ではわたくしはといえば、骨太でガチャピンよりも余程大きく可愛さの欠片もありません。守ってあげたいというよりは寧ろこちらが守ってあげる、というくらいの様子なのです。その上にむっちりと肉までついたなら。
・・・これではいけません、何とかしなくては。
体重計の上に屈み込んで膝を抱えたわたくしは、先程から僅かも変わらない目前の数値を睨みつけ、ダイエットを決意したのでした。




ダイエットする、とはいっても、今迄まともに取り組んだ経験がない・・・というより特別その必要も感じなかったわたくしです。一体何から手を付けて良いのか見当がつきませんでした。
取り敢えず、一般的に誰もがやっている食べる量を減らすことから始めました。本当は運動も一緒にした方が良いのだろうとは思いましたが、生憎わたくしは運動が大の苦手。少し動いただけでもすぐにバテてしまうのです。いつも何かしらのチャレンジに取り組んで、その為に自ら進んでトレーニングを行うガチャピンのようには到底なれそうもありません。
三日坊主になると予めわかっているのなら、やらないという選択をした方が賢明な筈です。
わたくしはまず、翌朝の御飯を抜きました。一食くらいなら平気だろうと思っていたのに、混み合った通勤電車の中でぐるぐると盛大にお腹が鳴り出しました。いつもは朝からしっかりと食べますので、まるで早く食べ物を、と催促しているようです。
その音が聞こえたのか、すぐ傍からくすくすと潜めた笑い声が聞かれました。わたくしは耳の縁が火照るのを感じながら、何食わぬ顔で肩から下げたショルダーバッグをお腹に押し付けるようにして抱えます。ついでに腹筋に力を入れて音を抑えながら、早く最寄駅に着いて欲しいと切実に願っていました。
漸く駅に着き、人混みから解放されても、先程の緊張と空腹とで朝だというのにわたくしは既に疲れ切っていました。
まさか朝食を抜くことにこんな落とし穴があるなんて。
心が折れそうにもなりましたが、ここで挫けてしまってはお終いです。
気を取り直して、わたくしは今日収録のあるスタジオへと向かいました。


「ムック、おはよう!」


弾んだ声の後、背後からわたくしの身体に腕が巻き付いていました。
咄嗟に首だけを後方に向けたわたくしは、相手の姿を認めて固まります。腕の主はガチャピンだったのです。
こうして抱き付いてくるのは相手にとって挨拶代わりみたいなものなのです。けれど今こうしていれば、太ったことを知られるかもしれません。
わたくしは慌ててガチャピンの腕を振り解いていました。
「ムック?」
「すいません、暫くわたくしに触れないでいただけませんでしょうか!」
「えっ、どうして」
わたくしの言葉に、ガチャピンは怪訝そうな声を洩らしました。いきなり触れないで、と言われて納得する相手など居る筈もないことはわかっています。
けれど、ガチャピンの格好も悪いのです。白のカットソーの上に羽織った身体のラインに添う形の黒と灰のブロックチェックを配したフルジップパーカー、そして細身のジーンズ。わたくしの悩みとは見るからに無縁の体躯を目にすれば、尚更本当のことは言い難いものです。
わたくしは口籠りそうになりながらも必死で考えます。
「あの、その、実はわたくし腰を痛めてしまいまして・・・」
「そうだったんだ。うわゴメン、さっき大丈夫だった?」
途端に心配するような顔を向けられました。けれど勿論、腰なんてこれっぽちも痛くはないのです。仕方のないこととはいえ、ガチャピンに対して嘘を吐いてしまったことに罪悪感を覚えていました。
すっかりわたくしの言葉を信じた風のガチャピンは、「痛かったら、あんまり無理しちゃダメだよ」なんて優しい言葉まで掛けてくれます。
それを心苦しく感じていると。
「あ、そうだ。さっきスタッフさんから貰ったの、ムックにもあげるよ」
そう言ってごそごそとパーカーのポケットを漁ってガチャピンが取り出したのは、小さなチョコレートの包み。差し出されたそれは、わたくしの目に大層魅力的に映ったのですけれど。
「・・・要りません」
わたくしはすぐにチョコレートを見ないように視線を逸らしました。
ここで食べてしまえば、元も子もありません。三日坊主どころか、半日坊主になってしまいます。
しかしわたくしの言葉に、ガチャピンは大いに目を剥きました。
「どうしたの、ムックがチョコ要らないなんて!?」
わざわざ逸らした視線の中に入るようチョコレートを差し出してくるガチャピンに、わたくしは俄かに苛立つものを感じていました。
今は食べたくとも絶対に食べられないのです。人の気も知らないで、とも思いましたが、勿論そんなことを相手に言える訳もありません。
「いえ、ちょっとお腹の調子も悪くて・・・」
「えー、そうなの?腰もお腹も痛いって大変だね」
心配してくれるガチャピンにますます心苦しくなりながら、わたくしはガチャピンの手に乗るチョコレートの包みへと目を遣りました。
嗚呼、食べたいものをこうして見るだけというのは、本当に目の毒です。
苦心の末にそこから視線を逸らしたところで、ガチャピンが思い出したように口を開きました。
「そういえば僕、明日から一週間、仕事で居ないから」
「どちらに行かれるんですか?」
「モルディブにダイビングしに行ってくるよ。海が綺麗だっていうし、運が良いとジンベイザメと泳げるらしいんだ」
余程楽しみにしているのでしょう、ガチャピンの声は弾んでいます。
ガチャピンはこうしていつも、出掛ける予定を唐突にわたくしに告げるのです。でも、これは最早慣れたこと。わたくしも目くじらを立てることはありません。それに今回はわたくしにとっても都合が良いのです。
ガチャピンの居ない一週間の内に、絶対体重を戻さなくては。
「どうぞ、気を付けて行ってきてくださいませね」
「うん、ありがとう」
笑顔で答えるガチャピンに、わたくしは内心で頑張りますからね、と固く誓いを立てます。すると、わたくしを見ていたガチャピンが何故か噴き出すではありませんか。
「もう、お土産はちゃんと買ってくるからそんな顔をしなくていいよ!」
・・・どうやら、思いはガチャピンに少しも通じなかったようです。
それにしても、わたくし一体どんな顔をしていたというのでしょう?




翌日、ガチャピンはモルディブへと出掛けてゆきました。
向こうに居るガチャピンからは毎日パソコンでメールが送られてきます。
美しい海の様子と、ダイビングを頑張っている旨が書かれたメールを見れば、わたくしも頑張らなくては、と思わずにいられません。
数々の誘惑に耐えながら、食事制限は続いていました。朝は抜いて、昼は市販の固形の栄養食バーを一本、夜は野菜ジュースのみ、という食生活です。
しかし、食べないと決めると、何故斯様に食べ物が美味しそうに見えるのでしょうか。あれが食べたい、これが食べたい、なんて言い始めるときりがないくらい。一日中、食べ物のことばかりを考えているような心持ちになってしまうのです。
けれど、ガチャピンも頑張っているのだからわたくしも・・・とぐっと堪えるのが常でした。なんだか妙に疲れ易いのも、夜に深く眠れないのも、眩暈や立ち眩みを覚えるのも皆我慢です。
その甲斐あってか、体重は4日で2キロ落ちていました。
このまま続けていれば元に戻るかもと喜んでいたのも束の間、そこから体重が全く減らなくなりました。食べる量自体は変っていないというのに、どうしてでしょう。
わたくしは焦るような、苛立つような心持ちで一杯になっていました。
ダイエットを始めてから、わたくしは無性にイライラすることが増えていました。好きなものを好きなように食べられない、ということが過度のストレスになっているようです。かといって、ここで食べてしまえば今迄頑張ってきたことが水の泡になってしまう。そう思うととても食べ物を口にする勇気は出ず、また自然とイライラが募るのです。
そんな中、ガチャピンからわたくし宛てに電話が掛ってきました。
「ねえムック聞いて!すごいんだよ、僕ジンベイザメと泳いだんだ!!」
告げる声は溌剌として、明るく弾んでいました。ジンベイザメと一緒に泳げたことが余程嬉しかったようです。
しかし、一方のわたくしの心は浮かないもので溢れていました。
明日ガチャピンが帰ってくるというのに、結局体重が後2キロほど戻っていないのです。
「・・・どうしたのムック、なんか元気ないみたいだけと」
相手の言葉に電話越しにギクリと固まります。ガチャピンはこんな時ばかり妙に敏いのです。
「そ、そんなことないですぞ!わたくしはいつも元気一杯ですから!!」
「そう?」
「そうですとも!」
「んー・・・ならいいんだけど」
未だ訝る調子を崩さない声に、俄かに緊張が走ります。けれど、本当のことは口に出せません。
どうにか誤魔化して電話を切った後、わたくしは溜息を吐いていました。
ガチャピンが帰ってくるまでに4キロ落とせなかった自分が情けないやら、不甲斐ないやら。それでも明日には顔を合わせることになるのです。
そう考えると途端に憂鬱になって、わたくしは先程より大きな溜息を吐いていました。ガチャピンに、会いたいのに会いたくないという複雑な心を持て余したまま、最終日の夜は過ぎてゆくのでした。







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