君と 僕と もどかしい距離




残一日

どこからか、足音が聞こえています。
わたくしは瞼を閉じたまま、半分覚醒した意識でぼんやりとそれを聞いていました。
その内リビングの扉が開き、毛足の長いラグと何かの擦れるさわさわとした音が近付いてきます。足音は、わたくしの居る前でぴたりと止まりました。
わたくしの傍に誰かが居ます。
瞼を閉じていてもひとの気配というものは伝わってくるのです。
何かが、顔の傍へ寄せられました。
時を置かずにわたくしの額には少しひんやりとした、やわらかな感触が生じます。
あくまでそっと触れるのは、わたくしを起こさないようにする為でしょうか。でも、とても心地の良い感覚です。
額に置かれたものはなんだろう。
不思議に思って、閉じていた瞼を開きます。
但し、瞼を開いても視界は薄く膜を張ったように霞みがかっていました。
ゆるゆると幾度か瞬いて、漸く視界がクリアになった途端。
これが夢か現実か、わたくしはすっかりわからなくなっていました。
「あ、起しちゃったか」
なんて、申し訳なさそうに言う相手の顔を見つめながら。
未だ混乱の続いていたわたくしがどうにか訊ねられたのはたった一言。
「ど・・・して?」
「昨日、帰るって言ったでしょ」
そう言って笑っているのは、紛れもなくガチャピンです。
今、この場に居る筈のない相手が目の前に居て、わたくしの額に手のひらを当てている。そんな現実に、続く言葉は出てきませんでした。
「まだ熱があるね。薬は何か飲んだ?」
わたくしが首を振ると、ガチャピンは考える素振りを見せました。
「僕が風邪薬持ってるから、取り敢えずそれを飲んでみようか。でも薬を飲む前に何かお腹に入れておかないとね。摩り下ろしたリンゴは食べられそう?」
その言葉に頷くと、「ちょっと待ってて」と言い残してガチャピンはリビングを出ていきました。
ガチャピンの出て行った扉を、わたくしは呆けたように眺めます。
それからふと握り締めたままだった携帯の存在を思い出しました。
時間を確認すれば、まだ朝の八時を回る前です。
ガチャピンはどうやって帰ってきたのでしょう。それに仕事はどうしたのでしょう。
まだ後一日残っている筈なのに、帰ってきたりして大丈夫だったのでしょうか。
・・・もしかしたら迷惑をかけたのでは。
不安はわたくしの意思とは関係なく、むくむくと膨れ上がっていくばかり。
胸が不安ではち切れそうなほど苦しくなって、咄嗟に手で押さえたところでトレイを手にしたガチャピンが部屋に戻ってきました。
傍のテーブルに置かれたトレイの上には水の入ったコップと風邪薬と思しきカプセル。一緒に、すり下ろしたリンゴの入った小さなスープボウルとスプーンが載っていました。
「起きられる?」
訊ねられて、わたくしは手に持っていた携帯を離し、ソファに身を起こします。
起き上がる時に少し身体が傾きそうになりましたが、傍に居たガチャピンが手を貸してくれたお陰で倒れることはありませんでした。
ソファに座ったわたくしに、ガチャピンはリンゴの入ったボウルとスプーンを手渡しました。
摩り下ろしたリンゴをそろりとスプーンで掬って口に運べば、ひんやりとしたリンゴが痛む喉をするすると心地良く滑っていきます。口に広がるやさしい甘みが身体にじわじわと染み込んで、少しずつ力も湧いてくるようです。
無心にスプーンを動かす内に、ボウルの中は空っぽになっていました。
リンゴを食べ終えると、今度は水とカプセルを差し出されます。
つるりとした白いカプセルを水と共に飲み下したわたくしに、ガチャピンはよしよしと言わんばかりに頭を撫でてくれました。
それにくすぐったいものを覚えるよりも先。
胸の中に溢れ出したのは沢山の疑問や不安事でした。
「こんなに早くどうやって帰ってきたんですか?それに仕事は大丈夫なんですか?それにそれに・・・!」
訊ねたいことが有り過ぎて気ばかり焦っていると、ガチャピンはわたくしを宥めるようにひらひらと手を振ってみせました。
「仕事はね、ちょっと無理言って帰らせてもらった。今日は僕が居なくても大丈夫そうだったし。で、どうにか早く帰りたくって交通手段を調べてたら、こっちまで走る夜行バスが出てるのがわかってさ。出る時間ギリギリに行ったんだけど、どうにか乗れたんだ。でも長時間バスに乗るって結構疲れるね。まだお尻が痛い気がするよ」
ガチャピンは笑いながらなんでもないことのように言います。それに思わず。
「そんなに無理してまで・・・」
「無理してでも戻ってきたかったんだよ」
わたくしの言葉を遮るように強い口調で告げたガチャピンは、真直ぐこちらを見ました。
いつもとは違う口調と真面目な顔つきに、それ以上何も言うことが出来ずに口を噤みます。
「ムックが大変な時に、仕事に掛かり切るなんて出来ないよ。仕事はまたいつだって出来るけど、ムックは世界中でたったひとりでしょ。僕は仕事よりムックの方がずっとずっと大事なんだ」
捲し立てるようにそう言うと、ふ、とひとつ息を吐いて。
「・・・だからさ、ひとりで無理しないの。そんなことされたら僕はムックのことが心配で何も手に付かなくなる。だってメールが返ってこなかっただけで一日中悩めちゃうんだよ?」
少し困ったように眉を下げて笑うガチャピンが、わたくしの手を握りました。
伝わる手のひらの熱に、わたくしの胸も自然と熱くなります。
何か言わないと、と思うのに唇はわなわなと震えるだけでまともに喋ることが出来ません。
昨日から涙腺もおかしくなっているのか、勝手に零れ出た涙は止め処なく溢れて少しも止まってくれそうにありませんでした。
そんな自分が情けなく、恥ずかしいとも思うのに。
ガチャピンの言葉が弱っていた身体と心に沁み込んでしまって、どうしようもなかったのです。
ぼろぼろ泣いているわたくしの頬に、ガチャピンはそっと触れながら。
「僕、明日も休みだから、ずっと一緒に居られるよ。風邪、早く治そうね?」
やさしくそう言われても、わたくしはただ、頷くしか出来なかったのですけれど。






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