君と 僕と もどかしい距離




残二日

目覚めた瞬間、『やってしまった』と思わずにいられませんでした。
鉛でも詰め込んだかのように全身が重怠く、頭も霞が掛ったようにぼんやりとしています。ソファに身を起こそうとすれば眩暈にも似た感覚が生じてわたくしはまともに起き上がることすら出来ませんでした。
その状態から立ち上がる、ということがどれほどの労力を伴うのか。
考えただけでうんざりしてしまい、わたくしは大人しくソファへ沈みました。ブランケットを掛けていると暑いのに、外すと途端に震えがくるぐらい寒く感じるのは間違いなく熱がある所為でしょう。
寝転がったまま、わたくしは頭上にあるカーテンへと目を遣っていました。その隙間から白っぽい光が漏れているのが見えます。
今は何時なのでしょうか。
テレビボードの真横、キャビネットの上に置かれたデジタル時計はいつもわたくしが起きる時間を表示していました。
酷い体調なのにも関わらず、身体はきちんといつもと同じことをしようとしている。
それがとても滑稽なように思いました。
笑おうとして、声がまともに出ないことに気付きました。
喉に違和感があり、声を出そうとするとざらざらとした荒い息の音が混じるのです。また酷く喉も渇いていていました。何か飲みたいとぼんやり考えて、バッグの中に飲みかけのお茶のペットボトルが入れっぱなしになっていたのを思い出しました。
テーブルへと手を伸ばしてバックを近くに引き寄せ、中からペットボトルを取り出します。蓋を開けてお茶をちびちびと飲めば、少し気分が落ち着きました。
けれど、まともに動けないことに変わりはありません。
仕方なくバッグの中から携帯を抜き出します。
二つ折りの携帯を開けば、ディスプレイにはメールの着信表示がありました。
けれど今それを見るのがなんとなく躊躇われて、わたくしはメールを開くことのないまま仕事場に電話を入れました。
酷く掠れたわたくしの声に電話を取った相手は驚いていたようですが、休む旨を伝えると「今日はゆっくり休んで、早く治してくださいね」とやさしく言ってくれました。
電話を終えてもメールの確認をせずにわたくしは携帯をテーブルの上に置きました。
ソファに横になったまま、ぼんやりとした頭で天井を眺めます。
暖房を点けっぱなしで寝た所為か、空気が乾燥しているようでした。電気も点けっぱなしでしたし、ガチャピンに知られたらきっと煩く言われることでしょう。
けれど今はそれが懐かしいように思え、たとえ小言でもいいから声が聞きたいとさえ思いました。
気を抜くと、心細さに押し潰されてしまいそう。でもそういう時に限って、『このまま熱が上がって死んでしまったら』なんて突拍子もないことまで考えてしまう始末。
うっかりおかしなことを考えてしまったのが悪いのか。わたくしは無性にガチャピンに会いたくなりました。会いたくて会いたくて、胸がどんどん苦しくなっていきます。
もし会えないのならせめて声が聞きたい。メールではなく、ガチャピンの声が。
わたくしは目の前のテーブルに置かれた携帯を見つめます。
そこに手を伸ばそうとして――――結局、思い止まりました。
そろそろガチャピンも仕事が始まる時間の筈です。今電話をしても迷惑になるだけでしょう。
ガチャピンは、仕事がとても好きなのです。
好きなことをして、いつでも楽しんでいるのがわたくしにもわかる。
だからこそ我儘を言って困らせたり、足を引っ張りたくはないのです。
絶対に、重荷だとか面倒と思われたくはないのです。
それがわたくしの最低限のプライド。
・・・ただここまでくると、一人でつまらない意地を張っているだけのようにも思えてくるのですが。
そんなことを取り留めなく頭に浮かべながら、わたくしは瞼を閉じます。
取り敢えず寝てしまえば何も考えずに済む。
そう思ったのに、閉じた瞼の裏にガチャピンの顔ばかり浮かんでわたくしはなかなか寝付くことが出来ませんでした。






鼓膜を震わせる耳障りな電子音に、わたくしはぐずぐずと瞼を開きました。
音の出どころはテーブルの上に置かれた携帯からです。
未だ完全に眠りから覚めていない、気怠いような心地が身体を支配しています。
一体誰だろうと不機嫌に思いながら、わたくしは携帯を手に取りました。
そしてディスプレイに表示された着信の名前をたっぷり数秒凝視した後、今度は驚きで数秒固まりました。着信はガチャピンからだったのです。
こうして出掛けている最中にガチャピンが電話を掛けてくることは滅多にありません。なのにどうして。もしかしたら、仕事中に何かあったのでしょうか。
熱でぼんやりする頭では碌にものも考えられず、わたくしは不安なまま電話に出ることになりました。
「・・・もしもし」
出した声は低く潰れた上に掠れていました。酷い声です。
喉の違和感も増して、朝より状態は悪くなっているようでした。
「もしもしムック?どうしたの、酷い声だね」
「・・・風邪を、ひいてしまったみたいで」
「そうなんだ。体調はどう?熱は?あ、薬は飲んでる?」
矢継ぎ早に訊ねてくるガチャピンに、わたくしは少し戸惑いながらも。
「だいじょうぶ、ですよ。ぜんぜん、大したことはないんです」
心配をさせたくない。迷惑を掛けたくない。
その一心で、掠れた声ではありましたが努めて明るく答えます。
すると何故かガチャピンは電話の向こうで押し黙ってしまいました。
わたくしは何かおかしなことを言ってしまったのでしょうか。
いつにも増して働きの悪い頭でぐるぐると考えているところで。
「・・・本当に?」
「えっ」
「本当に大丈夫なの、ムック?絶対無理してるでしょ」
告げられた言葉に、わたくしは頭の中が真っ白になっていました。
大丈夫なの、なんて。無理してるでしょ、なんて。
どうしてそんなことを訊くのでしょう。
だってわたくしは、そう言わなくてはいけないのです。
ガチャピンを困らせたくないから。嫌われたくないから。
だからわたくしはずっと我慢してきて。
でも。
こんな風に言われたら、もう。


「・・・だいじょうぶ、じゃないです」


今迄我慢をしていた所為でしょうか。
零れた正直な思いは、堰を切ったように次々と溢れ出しました。
「身体はだるいし、まともに起き上がれないし」
「うん」
「喉がヘンだし、ちゃんと声もでないし」
「うん」
「熱はあるし、頭がぼんやりしてよく考えられないし・・・」
「うん」
ガチャピンの、あくまで穏やかな声の調子に自分の中で頑なになっていたものが緩んでいくのを感じます。
気付けばわたくしの目からは涙が零れていました。
流れ落ちる涙は枕代わりに頭の下に置いているクッションに濃く染みを作っていきます。
「・・・ガチャピンがいないし、ひとりだし、こころぼそいし」
「うん」
「でも、ガチャピン、に、ぜったい迷惑・・・かけたくないし」
「うん」
只でさえ低く潰れた声は、しゃくり上げた所為で途切れ途切れにもなります。
とても聞き取り辛いでしょうに、ガチャピンは根気強く聞いてくれるのです。
それに力を貰えた気がして、ますます口には言葉が溢れてきました。
「カップル見てて、ふたりともかわいいのにかなしくなるし、スーツさんが電話してるのを、なんかいいなって思っちゃったし」
「うん?」
「それに映画観てて、我慢できずにひとりえっちするし・・・」
「ええっ?!」
突然の大きな声に吃驚して、涙が一瞬にして止まります。
その後、ガチャピンは電話の向こうで完全に沈黙してしまいました。
もしかして怒っているのでしょうか。
でもどうして。
続く沈黙に耐えかねて、わたくしは携帯を握りしめたまま恐る恐る呼び掛けます。
「ガチャピン?」
すると電話越しにはあぁ、と大きく空気の抜けるような音が聞こえてきました。
「・・・わかった。僕、今からそっちに帰るから」
「え?」
「いい、ムックはちゃんと寝てるんだよ。どこかに出掛けたりしちゃ絶対ダメだからね。わかった?」
少し強い口調を受けて、わたくしも「は、はい」なんて反射的に答えます。それに満足したのか、ガチャピンは「じゃあね」と一方的に言って電話を切りました。
わたくしは携帯を耳から離し、ディスプレイに映し出された時間を見つめます。
現在、22:08。
今から帰る、とは言ってもこの時間にどうやって帰ってくるつもりなのでしょう。
予定では後一日仕事がある筈だというのに。
それでも「帰る」という言葉に、深い安堵と胸の沸き立つものを覚えながら。
深く考えることをせず、わたくしは携帯を握りしめたまま再び瞼を閉じていました。









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