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続いてゆく日々のいとしさ

19




五月三十一日

久しぶりに夢を見た。
夢の中で、オレはどこかの台所に立って湯のみに茶を淹れていた。
こぽこぽと音を立てて急須から注がれる茶は、予め用意のしてあった湯のみふたつ分を満たして丁度良い量だった。
急須を傍の流しに置き、オレは何気なく室内を見渡す。
ところどころ油染みが浮いた壁や天井に、無数の傷が付き水垢でくすんだステンレスの流し台。その傍に置かれた水きり籠の中には、洗いたてなのか茶碗や皿、箸などが水滴を付けたまま収まっていた。
湯沸かし器やコンロの他、台所に置かれたものは皆年代物のように目に映る。コンロの上に載った薬缶も同様に使い込まれて、どこか味のある風情になっていた。
小さな冷蔵庫には走り書きのようなメモが幾つかマグネットで留められている。○○日任務後集会とか、切れかかっている日用品のメモだとか、そういったものが全て見慣れたオレの字で書かれている。
台所の真ん中に置かれた小型のテーブルの上には籐編みの籠に入った甘夏柑と思しきものがたっぷりと盛られていた。そこから甘く爽やかな香が漂ってくる。全体に古びた印象ではあるが、なかなか生活感のある台所でもあった。
一通りその様子を確かめたオレは、淹れたお茶を盆に載せると台所を出て薄暗い廊下を進む。どこに辿り着くかはわからなかったが、自然と足がそちらへと向いたのだ。
短い廊下のつき当たりに、襖があった。
そこを開いた先、室内には人が居た。部屋に置かれた、やはり年季の入った卓袱台の前に座っている。その相手をオレは彼だと判断したけれど、そこに多少の違和があるのは否めなかった。
何故なら黒髪の中に白いものが混じり、顔には皺が刻まれ、そしてその目は――――光を失っているようだったから。
顔はこちらを向いていたけれど、彼の目がオレの姿を捉えていないのははっきりと伝わった。
その深い闇の色を宿す瞳を前にしても不思議と取り乱しはしなかった。夢だ、と予めわかっていたのもあるし、彼の顔が思いの外穏やかだった、ということもある。
歳を経るにつれ、人間は様々な出来事を経験し顔付きが変わってくる、という話を耳にしたことがある。良い歳月を重ねればその様子が、悪いものであればそれが皆顔に出てくる、とも。目前に在る彼の顔は、正しく良い歳の重ね方をしただろう者特有の穏やかさに満ちていた。
オレは彼の傍へ行き、お茶が入りましたよ、と声を掛ける。
その後で卓袱台の上に置かれていた彼の手に触れるか触れないかというところに湯のみを置いた。
「ありがとうございます」
そう礼を言った彼が湯のみを掴み、口元まで運んでお茶を啜る。
その一連の動作があまりに自然だったので本当は見えているんじゃないかと疑ってしまったが、覗き込んだ目はやはり虚ろでものを映すように動いてはいないのだった。
「・・・オレの顔に、何かついてます?」
「見てるのがわかるの?!」
「なんとなくはね」
思わず声を上げれば、ふふっと笑いながら返される。
彼が笑うと、目元と口元にくっきりと皺が寄る。
一朝一夕では出来ないだろうそれが顔にあるというだけで、彼から受ける印象はますますやわらかいものになる。
「それで、何見てたんですか?」
問われたので、素直に笑い皺と答えれば彼は目を真ん丸くした。
しかしすぐにその顔を盛大に顰めてみせる。
「アンタって昔から変なところばっかり見てますよねぇ。でも笑い皺ならアンタにもあるでしょうよ」
「え、あるかな?オレ、普段からそんなに笑ったりしないけど」
「絶対ありますって。なんならオレが確かめてあげますよ」
ほら、と両手を持ち上げた彼はそのまま宙でピタリと動きを止める。
・・・きっとオレの顔を触るまでこの格好を続けるつもりなのだろう。
今だって両腕がぷるぷると震え始めたのにそれでも下ろそうとしないくらいだから。
負けず嫌いなのは変わってないなぁ。
そんなことを思いながら、宙に浮かんだままの手を取ってオレの顔へ導く。頬の辺りに手を宛がわせれば、彼は慎重且つ丁寧にそろそろと指先を滑らせ始めた。
顎に、唇に、鼻にと脈絡なく好き勝手に指が動き回る。それが擽ったくて堪えるように唇を引き結んでいれば彼がしみじみ、といった調子で零す。
「あー、やっぱり皺増えてますね。肌もハリが無くてかさついてるし。アンタも歳取りましたねぇ」
容赦のない言葉に、オレは眉が顰まるのを感じた。
「酷いなぁ。オレもアンタも一緒でしょうに。それに、そんなにはっきり言われるとちょっと傷付くんですけど」
拗ねたように告げれば「それもそうですねぇ。すいません」とのんびり言って彼が笑う。笑うと、顔全体がくしゃくしゃっと崩れて、また笑い皺がくっきりと浮かぶ。うん、この顔は何度見てもいい。
いつしかオレも、つられるように笑みを零していた。
「あ、ほらやっぱりあるじゃないですか!」
嬉しそうに言いながら彼の指が何度もオレの目元と口元をなぞる。
それは大切なものに触れる時のような、とても優しい指遣いだった。
光を映さない彼の目が緩やかな曲線を描き、その目尻に皺が寄る。
とても深くて、でもやわらかでやさしい、それ。
オレにも同じものが出来ているということは、きっとそれだけの時間をふたりで笑いながら過ごしてきたということだろう。
続いていくんだ。日々はこうして、当たり前みたいに続いていくんだ。
そう思ったら、胸の底から何かが爆発的に、一気に込み上げてきた。
それは熱く胸裏を埋め尽くして、呼吸をも苦しくさせる。
喜びや嬉しさ、切なさのようでもあって、でもそれらとはどこか異なる感情。
もしこの感情に名前を付けるなら―――いとしさ、だろうか。
そう、いとしいんだ。彼と共にある日々がこんなにも。
不意に、視界が潤む。
彼の顔が滲んで薄らとぼやけていく。
そして温い液体が耳の辺りにまで伝う感覚で、目が覚めた。
そこでオレは両の目から止め処なく涙が零れているのを知る。
夢を見ながら泣くなんて、と思いもしたけれど、オレの中をいっぱいに満たしていたのは紛れもない幸福感だった。
これからも日々は続いていく。
いつかあの人の顔とこの顔に笑い皺が出来るまで、ずっと。
それだけで、まだいくらでも泣けてきそうに思えた。
涙を拭わないままそのあたたかな余韻に浸っていると、ふと自分以外のぬくもりを傍に感じた。
何気なくぬくもりの元へ目を遣れば、オレにぴったりとくっつくようにして眠る彼。勿論、今の彼に皺はないし、髪には白髪もない。
それでも彼がそこに居るというただそれだけのことが無性にいとしく思えて、オレはまた少し泣いた。
それはとても、幸福な涙だった。










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