黒猫の輪舞曲 【ロンド・オブ・ブラックキャット】




或る者は言った。
執事が居るとそれだけで部屋が殺風景に見える、と。
貴冑の人間が好むところの優雅≠ニは兎角無駄が多いものを差す。
所有する広大な敷地の中に在る巨大な屋敷、見目の美しさのみを極限まで追求した機能性のない衣裳、無数にある部屋とそこを彩る数多の高価な装飾品。食事ひとつ取ってみても、朝昼夕とその間に必ず一度は長いティータイムが挟まる。
つまり、無駄の多い生活こそ何より優雅≠ナあり、貴冑の人間にとってはそれこそがステイタスなのである。
だからこそ有能な執事の計算された、一切無駄のない仕事ぶりは非常に無粋で面白みのない様子であったのだろう。
しかしながら、それは逆に執事にとってみれば最高の褒め言葉でもある。
部屋を殺風景に見せる執事。その言葉に違わない人物を、イルカは誰より知っている。

「イルカ、新聞にアイロンは済んでいますか」
「はい、終わっています」
「よろしい。では、モーニング・ティーの準備を。添えるミルクは多めに用意してください」
「かしこまりました」

淀みなく出される指示に遅れを取らぬよう、イルカもきびきびと動く。
その間も件の指示を出した相手は動きを止めることなく流れるように必要な物事を成し遂げていく。
主人が身につける召物の用意も、食卓の支度を確かめるのも、その合間に主人の予定に合わせて予め外出の準備を整えるのも。全てにおいて手抜かりはない。
また早朝にも関わらず、額を出すようきちんと後ろに撫でつけられた髪と服装の一切においても僅かの乱れもない。
その眉目清秀な面立ちに浮かぶ落ち着き払った表情が崩れたことを、イルカは今迄一度たりとも目にしたことがなかった。
仮に今、イルカが淹れたばかりの紅茶をティーポットごと床に落としたとしても、相手は眉ひとつ動かさず、あくまで冷静に主人にとっての最善を尽くそうとするだろう。
そんなことを考えながら、イルカはティーポット以下モーニング・ティー用の道具一式が乗ったワゴンを引き渡す。
それからインクで主人の手を汚すことがないよう隅々までアイロンのあてられた、皺ひとつない新聞を受け取った相手はスマートな態を崩すことなく主人の部屋へと向かう。
隙のない後姿を見送って、イルカはそっと感嘆の息を吐く。
一介の使用人であるイルカの目から見ても屋敷に仕える執事、カカシの仕事ぶりは完璧そのものであった。
家令も、主人付きの従僕も居ないこの屋敷において、カカシの果たす役割は大きい。
屋敷内の使用人の管理は勿論、主人の身の周りの世話や外出への付き添い、また主人のスケジュール管理をも請け負っている。
けれどその一切にカカシは手を抜いた様子を見せなかった。
与えられた多岐に渡る職務を効率良くこなす傍ら、常に主人の様子に気を配り、何を言われずとも望む通りの対応を取る。
屋敷に働く使用人全ての様子を掌握し、状況に応じてとられる采配は適切で抜かりがない。もしそこで何かしらの問題が起こったとしても、すぐに最良の解決方法を見出して対処するのだ。
イルカは執事であるカカシの補佐として屋敷に雇われたばかりである。
しかしながら間近でカカシの仕事ぶりを目にすれば、自分でなくともカカシに敬意を抱き憧れる、と常々思っていた。
また、いつかはカカシのような立派な執事になりたいとの想いも心密かに抱いている。
但し執事補佐という立場にあっても、イルカに与えられた仕事は執事のそれとは程遠いものばかりだった。
この屋敷にはフットマンと呼ばれる、主に雑務を専門にこなす下働きの使用人が居ない。その為に、種々の雑務を皆イルカが引き受けている状態であったのだ。
主人の洋服のブラシ掛けから靴磨き。
食事やティータイムのテーブルセッティングと主人が使用する食器の磨き上げ。
果ては主人の飼い猫の世話まで。
特に飼い猫『ヤマト』の世話は、イルカの主な仕事といえるほどに時間を割いていた。
毎日の体調管理に目を配り、食事や毛並みのブラッシングにも並々ならぬ気を遣う。時にはその遊び相手役を務め、動作や様子に差異がないかを確かめる。
そして一番重要で大変な仕事が、主人からいつヤマトを所望されても良いよう居場所を把握しておくことだった。
猫に紐を付けておくのを良しとしない主人のお陰でイルカはいつも屋敷中を捜し回る羽目に陥っていたのだ。
イルカよりも余程長く屋敷に住まうヤマトは屋敷の内外を知りつくしており、いつも奇想天外な場所に居る。
先刻まで日当たりの良い出窓で寝そべっていたかと思えば、いつの間にか屋敷の外を悠々と歩いているという具合だった。
毎日ヤマトに振り回されているイルカに、使用人仲間からは『猫執事』という有り難くない名まで付けられているほど。
理想と現実はかくも厳しい。
これではカカシのような執事になれるのはいつになるやら、と遠い目をしたくなるイルカだ。
それでも、間近でカカシの仕事ぶりを目に出来ることはイルカにとって幸運でもあった。
カカシの立ち振る舞いや対応には学ぶべき部分が多い。
また、カカシの様子を目で追うことで知れたこともある。
上に立つ者としてカカシは管理する使用人に対して厳しい。
ただ、それ以上に自らも厳しく律している。
主人の為に完璧を追い求め、妥協を許さない姿勢は主人だけでなく、使用人達からも信頼されていた。
屋敷はカカシが居るからこそ円滑に回っていると言っても過言ではないのだ。
そのカカシに命じられ、イルカが食堂で朝食のテーブルセッティングを行っていた時だ。
足元からなぁん、と呼び掛けるような鳴き声が耳に届いた。すぐに視線を落とせば、絨毯の敷かれた床にちょこんと行儀よく座る黒猫の姿がある。
まるで天鵝絨を思わせる艶やかな毛並みと、見る角度により金にも緑にも見える、澄んだ硝子玉の輝きを持つ愛らしい瞳。
そしてすらりと優美なラインを描く肢体は、獣としてのしなやかな美しさを失ってはいない。
凝っと上目遣いにイルカを見上げる主人の猫ヤマトは、目が合うと再びなぁん、と声を上げた。
「もう少しお待ちください。そろそろ御主人様がお越しになられますから」
猫に敬語を使うのも最初は違和感を覚えたが、今では慣れたものだ。
イルカの言葉にヤマトは『仕方ないな』と言わんばかりの様子で柔らかな毛に覆われた長い尻尾を持ち上げた。ぱたんと軽く床を打ち、そのままふいと扉へ顔を向ける。それはまるで、人語を理解しているかのようでもある。
待ち侘びるヤマトの気配を感じ取ったのか、間を置かずに屋敷の主であるサイが食堂に姿を見せた。
烏羽色の髪に映える、抜けるように白い肌。涼しげでありながら、どことなく気怠さをも感じさせる目許とそこに収まる印象的な黒の瞳。一種儚げな見目に対してどこか老成した雰囲気を纏うサイは、現在二十一歳のイルカより六つほど年上である。
但し、若いながらもそこには主人としての風格を備えている。
「おはようございます、サイ様」
「ああ、おはよう。おや、ヤマトは早いね」
イルカに短く挨拶を返した後、サイの関心はすぐに足元のヤマトへと移る。
サイは愛猫を溺愛し、目に入れても痛くないほど可愛がっているのだ。
勿論ヤマトもサイに懐いており、今も甘えるように身体をサイの足に擦り寄せている。
愛猫の様子に目を細めるサイの後ろから、付き従うカカシも食堂に姿を見せる。それに自然とイルカの背筋は伸びる。
カカシと目が合い、僅かに顎を引くことで応えると直ちに食堂に隣接された厨房へ向かう。
料理人から準備された料理を受け取り、カカシに渡す。そこから先は全て執事の仕事であった。
カカシがサイに食事の給仕をしている間、イルカはヤマトの食事を用意する。
専用の皿に盛られた、解した白身魚とささみが混ぜられたものを差し出せば、ヤマトはがっつくでもなくあくまで上品に口へと運ぶ。
その様子をサイが時折食事の手を止めて見守る。これが、屋敷における朝食のスタイルだった。
そして主人が食事を終えたタイミングを見計らい、ヤマトはサイの腰掛ける椅子へと近付いてくる。
床から軽やかに飛び上がり、膝に納まると上目遣いにサイを見遣った。勿論サイも心得たもので、ヤマトの形の良い頭やふんわりとした毛に覆われた喉元を優しく撫ぜる。
ぐるぐると喉を鳴らして満足気に瞼を閉じるヤマトに、サイもそっと目を細める。
こうして猫と共に在る時の主人は、いつも穏やかな表情を絶やさない。涼やかな面立ちに柔らかさが加わり、一層秀麗さが引き立つようでもある。
ただ見るものが見れば、何気ない仕草から垣間見える気品に育ちの良さを感じるだろう。
主人のサイは、火の国のさる名門貴族の血を引いている。
国内において広大な領地を所有する生家は、火の国でその名を知らぬ者はない存在であった。
早くに母を亡くしたサイは当主であった父と兄、有能な執事や厳しくも優しい乳母、才学のある家庭教師等良く出来た使用人に恵まれ、幸福と呼べる子供時代を過ごした。
しかしながら流行病で続けざまに父と兄とが亡くなると、生活は一変した。
当主の跡目を巡り、父の兄弟ばかりでなく親類縁者をも巻き込んだ骨肉の争いに発展したのだ。
跡目争いは解決の糸口さえ見出せぬまま泥沼化し、混乱は長く続いた。
その間、醜い有様で互いを蹴落とそうとする者達を間近で目にし続けたサイは、全てに厭気が差してしまったという。
ある時、領地の内でも辺鄙な位置に在る僅かな土地と付随する屋敷とを貰い受け、自ら継承の権利一切を放棄した。当事者から外れることで、諍いから一線を置いたのだ。
当時、正当な継承権を持つサイが跡目争いから抜けたことを嘆く者は多かった。
但し、当人は然程気に病んではいなかった。周囲が騒ぐほどその身分に執着がなかった所為だった。
サイには元々描画家として天賦の才があった。
幼い頃より神童と呼ばれ、描く絵は名だたる芸術家から軒並み高く評価されていた。沢山の美術商や画廊から作品の引き合いがあり、絵の依頼も切れ間なくあったのだ。
だからこそ堅苦しく制約の多い貴族の当主に納まるより、絵を生業として自由に生きることをサイは選んだのである。
そんなサイを、周囲の人間は変人と評した。
自ら継承権を放棄したという以外に、二十七歳にもなって浮いた話のひとつも出ないという呆れもあるようだった。
富と名誉を持ち合わせた芸術家ほど醜聞に事欠かないと言われている。それだけに、猫と共に片田舎の屋敷に引き籠る若者が周囲には奇異に映るらしかった。
サイの様子に業を煮やして沢山の縁談を持ち込む者、若い娘を紹介する者も大勢あった。
但し、それらは全てのらくらと躱されるのが常だった。
曰く、「私にはその必要を感じないので」。
この言葉が様々な憶測を呼び、陰で種無し不能者と不名誉な噂が流布してもサイは僅かも気に留めてはいないようだった。
心配する者達にも曇りのない笑顔でこう答えたという。
「構いやしないよ。所詮、馬鹿な犬が何処かで吠えているだけだろう?」
そういった食えない部分も含めて、サイに惹かれる人間は多い。
無論外部の人間だけでなく、カカシ以下屋敷の使用人達も皆主人を慕っているのだ。

「―――・・・ねえ、イルカ?」

ぼんやりと己が思考に耽っていたイルカは、サイの呼び掛けに気付くのが遅れた。
すぐにカカシの刺すような視線を受けることとなり、全身から冷や汗が噴き出す思いである。
「大変失礼致しました。何か、ございましたでしょうか」
「後で私のアトリエに庭の花を届けて欲しい。庭師にそう言えばわかるから」
「かしこまりました」
「ああ、その時『私に最も相応しい花を』と言い添えるのを忘れずに」
突飛な注文に面食らうイルカとは対照的に、サイの顔に浮かぶ笑みはあくまで美しいものだった。
イルカが「申し伝えます」と返したところで、膝上のヤマトが『興味なし』と言わんばかりにくわりと大きく欠伸を漏らした。










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