黒猫の輪舞曲【ロンド・オブ・ブラックキャット】




サイの屋敷には、元々土地に自生していた木々や草花を生かして造られた洋式の庭園がある。
テンゾウという名の庭師によって管理されているそこは、四季折々の草花によって常に美しく彩られている。
普段花を愛でる趣味のないイルカではあるが、自然にある景物を生かし一枚の絵画の如く整えられた庭園を目にすれば見事という言葉以外の感想は出てこない。
その見事な景観を保つ為にテンゾウは庭園の管理に関する全権をサイから託されていた。花の一輪、草の一本でさえ庭師以外の者が勝手に持ち出すことは許されていないという徹底ぶりだ。
但し、テンゾウが心血を注いで庭園の管理を行っているのを知らぬ者も屋敷に存在せず、誰も手を出しはしないのである。
イルカはサイの言いつけに従い、テンゾウを探して庭を歩く。
午前中とはいえ盛夏特有の刺すような鋭い陽射しは目にも肌にも痛い。
それでも庭園は競うように広がる植物の、様々な色彩に溢れている。
濃く青々と広がる生命力溢れる緑の色と対を成すように、空へ向かって伸びるヒメヒマワリの黄。
燃え上がる篝火にも似た鮮やかなベルガモッドの赤。
陽光を弾いて眩く輝くカラーの白。
暑い中、爽やかな色味を見せるアガパンサスの青。
周囲を緑に囲まれた小さな池で、水面に浮かぶ丸い葉の間から顔を覗かせているのは涼やかな睡蓮の花。
勿論、彩りがあるのは地上だけではない。
豊かに茂る木々の中でムクゲや百日紅の花が艶やかに咲き乱れ、綺麗に刈り込まれた青い芝生の上にはアカシアの大木から伸びる枝がまるでレース模様のような影を落とす。
蔦が柱にびっしりと絡まる四阿を横目に見ながら、イルカは石畳の敷かれた道を更に歩く。
時期を過ぎて花のない蔓薔薇の、緑鮮やかなアーチを潜ったところで漸く探していた相手の姿を見付ける。
頭につばの広い麦わら帽子を被り、大きな身体を丸めるようにして地面に屈み込む後ろ姿に向けて声を掛けた。

「暑い中、ご苦労さまです」

「やあ、イルカじゃないか」

すぐに振り返ってみせたのは庭師のテンゾウだった。心安い様子で返事を寄越すその額には玉の汗が浮いている。
強い日差しを避ける為かタータンチェックの長袖シャツとガーデニング用の布手袋、そして綿の作業パンツというラフないでたちである。
「今日も暑いね」
「本当ですね」
腰のベルトに引っ掛けたタオルで無造作に顔を拭う相手にイルカもしみじみと答える。
庭園の中を歩いてきただけのイルカですら既に汗ばむほどであるから、屋外での作業は大変な重労働だろう。
それでも日によく焼けた顔には人好きのする柔らかな笑みが浮かんでいる。
イルカの知る限り、テンゾウは誰に対してもこの顔を向けた。
庭師のテンゾウは、使用人の中で最年長のカカシより三つ年下の三十歳である。
その見目通り、屋敷に勤めて日の浅いイルカにもテンゾウはいつも親切だった。
ヤマトを探して庭園に出たイルカが困った様子であれば、たとえ作業中であっても手を止めて声を掛けてくれる。
そうしてヤマトが見付かるまで一緒に庭園内を探す手伝いをしてくれるのだ。
すっかり恐縮するイルカにも、テンゾウは顔に柔らかな笑みを浮かべてみせて。
「気にしなくて良いよ。いつも大変だね」
そう、労う言葉さえ掛けてくれる。
元々の性質もあるのだろうが、常に穏やかで気の良いテンゾウにイルカは好感を持っていた。
「また猫を探しに来たの?」
「いいえ違います。サイ様から、庭の花を届けて欲しいと頼まれたのです」
「花ねぇ」
「あ、それと『私に最も相応しい花を』ということでした」
「・・・なんだかすごい注文だなぁ」
付け足された言葉にテンゾウは大いに苦笑してみせる。優秀な庭師にとってもやはり突飛な指示であったらしい。
テンゾウは屈んだ姿勢のままで僅かの間考える素振りを見せた。
その内、思い当たるものがあったのか徐に地面から立ち上がる。
歩き出す後ろからイルカが付いて行くと、どこからともなくうなぁん、と覚えのある鳴き声が聞こえてきた。
驚いたイルカが声の元を探れば、先を行くテンゾウが足を止めた花の傍らにちょこんと佇む黒猫の姿。
「なんだ、お前も御主人様に似合う花を探しに来たのか。ん?」
テンゾウは膝を折ると、手袋を取り去り猫の頭を撫でた。少々乱暴な手付きにも、主人の猫はぐるぐると喉を鳴らしている。
ヤマトは、主人であるサイと同じくらいテンゾウにも懐いていた。
テンゾウの呼ぶ声を聞きつければ、庭園のどこに居ようとも自らひょっこりと姿を見せるほどである。
その様子を目にするにつけ、猫も案外人を見るのかも、などとイルカは思うことしきりだ。
イルカが明後日のことを考える内に、テンゾウはヤマトを撫でる手を止めた。
そして腰に下がる、随分と使い込まれた感のある革の道具入れから鋏を取り出す。
次いで眼前の花に敬意を払うような繊細な手付きで以て、幾本か切り取られた茎がテンゾウの掌中に収まった。
庭師が主人の為に選んだのは、幾重にも重なる花弁が見事なダリアだった。
純白のダリアは可憐でありながら、そこに優美さと凛とした気品をも兼ね備えている。
正に、サイに相応しい花であるとイルカも感じた。
「じゃあ、これをサイ様に渡してくれる?」
「ありがとうございます。でも、本当に綺麗ですね。これを見たらきっとサイ様はお喜びになるだろうなぁ」
ダリアを受け取って嬉しそうに顔を綻ばせるイルカを前に、テンゾウも笑みを深くする。
「イルカってさ・・・」
「はい?」
しかしにこやかに返事をしたイルカに対して、テンゾウの顔に浮かぶ表情が俄かに躊躇いの滲むものへと変わる。
「―――・・ん、いや。やっぱりなんでもない、かな」
ごめんねと謝ると、テンゾウは眉を下げて笑ってみせる。
何かを誤魔化すような表情にイルカは訝るが、最早テンゾウはそれについて触れる気配をみせなかった。
ダリアを手渡され、ついでに傍に居たヤマトをも腕に託されれば、イルカがこの場に居残る理由もない。
わざわざ作業の手を止めてくれているテンゾウをこれ以上煩わせる訳にはいかなかった。
「では、花を貰っていきます」
「頼んだよ」
イルカの言葉に笑顔で返して、テンゾウは今来た道を戻ってゆく。
その後姿を見送ると、イルカもダリアとヤマトを抱えて屋敷までの道を辿った。





屋敷に戻ったイルカは屋内でヤマトを解放した後、早速ダリアを花器に活けた。
縦に長いシンプルな形の花器にすっきりと収まったダリアは、その瑞々しさと共に纏う優美さを弥増すようでもある。
それに一人満足しながらイルカは花器を持ってサイのアトリエへと向かう。
この屋敷にはサイの自室とは別に創作専用のアトリエが存在する。
平生、サイはそこで絵に向かい合っていた。
創作に集中すると途端に寝食を忘れる主人は、自室よりもアトリエで過ごす時間が長い。
アトリエ内には簡単な寝台が設えてあり、そこで身体を休めて完成まで絵を描き続けるのが常であったのだ。
花器と共にアトリエまでやって来たイルカは、その扉の前に在るひとつの影を捉えていた。
閉まった扉を凝っと見据えるように佇むのは、ヤマトであった。
やって来たイルカを見るでもなく、なだらかな曲線を描く背を僅かも崩すことなく置物と見紛うほど微動だにせずそこに居る。
「中に入られますか?」
そう訊ねれば、まるで『一刻も早く此処を開けるように』と催促せんばかりの鳴き声が返ってくる。
思わず苦笑しながらイルカは扉をノックする。
すると中から短く、「入れ」と声が返ってきた。

「失礼致します」

イルカがアトリエの扉を開くと、開け放たれた窓から入り込む風と共に、室内に漂う油絵の具特有の匂いが鼻に衝いた。
それはさながら鼻の奥に匂いの塊が停留するような、息苦しさを覚える類のものである。
人間も参りそうな匂いの中にあってもヤマトは僅かも臆した様子がない。イルカよりも先に室内へ滑り込むと一目散にサイの元へ寄っていく。
壁や床に油絵の点在するアトリエで、サイはイーゼルに立て掛けられた大型のカンバスに向かっていた。
カンバスに下絵を起こしていた最中らしく、画用の木炭を掴む手は滑らかに、また休むことなく動いている。
イーゼルの傍にある古びたテーブルには無造作に置かれたスケッチブックと減り具合の偏った絵の具の数々。
長く使われる内に研いだように刃の鋭くなったペインティングナイフの隣には全体に染みが浮いた木製のパレット。
絵の具を溶く為の油を入れる金属製の油壺や、筆を洗う為の洗油器には経た年月分と思しき曇りが生じ、筆立てに収まった形や大きさも様々な絵筆はとりどりの色に染まっている。そこに在る道具は皆、使い込まれた印象でもあった。
それらを見るともなく目に入れながら、イルカも室内に足を踏み入れる。
先に入ったヤマトは既に従者にも似た様子でサイの足元に付き従っていた。
ヤマトはサイが作業をしている時は決して邪魔をしない。
それどころか己があたかもサイを邪魔する全てのものを見張る警護役であると信じ込んでいるかの如く、神妙な顔付きで以て周囲を睥睨するのだ。
そんなヤマトの姿を微笑ましく思いながら、イルカは静かにサイの横を行き過ぎる。
寝台の傍に設置された小ぶりのテーブルへ近付くと持ってきた花器を静かに置いた。
ことん、とテーブルと花器とが触れ合うささやかな音に、作業の手を止めたサイがイルカの手元を見遣る。
「・・・ふぅん、ダリアか」
素っ気なく言いながらもサイの口元には笑みが浮かんでいる。
テンゾウの選んだ美しい花は、主を前にして尚更相応しいものとしてイルカの目に映った。それが我がことのように嬉しい。
自然と笑みの零れるイルカはしかし、ふと気配を感じて花器に視線を戻す。
するとヤマトがいつの間にか寝台に上ってテーブルに前足を掛けていた。
その上、花に顔を一杯に近付けるのを目の当たりにして、思わず。

「ヤマト様いけません、こちらは食べ物ではございませんよ!」

大声で叫ぶと、慌てて花器をテーブルから取り上げてそのまま頭上高くに掲げ持つ。
そんなイルカの姿に『興醒めだ』と言わんばかりにしてヤマトが寝台から降り、サイの足元へ戻っていく。
思わず安堵の息を吐いていれば、不意にくつくつと喉の奥を震わせるような笑声が聞かれた。
笑声の源であるサイを見遣れば、いかにも可笑しい、といわんばかりの様子である。
イルカはそれに、顔ばかりでなく耳朶のふちまでも強く熱を帯びるのを感じた。
「申し訳ございません、お見苦しいところを」
「気にするな、なかなか見ものだった」
頭を下げるイルカに、サイは未だ笑みの残る顔で言う。そのお陰でますます熱が上がるのをイルカが感じているところで。
「しかしお前は本当に・・・」
何かしらを告げようとしていたサイが、途中ではたと口を噤む。
イルカが主を見遣るとそこには僅かに気拙そうな表情の浮かんだ顔がある。
「―――・・いや、止めておこう。お前には関わりのないことだからね」
まるで己に言い聞かせでもするように零すと、そのまま表情を平静のものに戻してみせる。
「作業に戻る。暫くは誰もここに近付かぬように」
「かしこまりました」
常の態を取り戻したサイに、イルカもまた同様に返してアトリエを辞する。
それでもイルカの中で蟠る心持ちが消えてはいなかった。
不自然なサイの様子に、何故か先刻のテンゾウの姿が重なる。
サイもテンゾウも何を言おうとしていたのか。
どれだけ考えてみてもその答えが出る筈もなく、イルカは改めて首を捻りつつ扉の前から離れた。








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