黒猫の輪舞曲【ロンド・オブ・ブラックキャット】




サイのアトリエから辞した後も、イルカは続けざまに与えられた仕事をこなしていく。
主人が食事の際に用いる銀食器やグラスを磨くことも彼の仕事のひとつだった。
柄に細かな紋様の入ったスプーンやフォーク、同ナイフとメインディッシュを載せる楕円形のオーバル皿。
凝った縁取りのなされたディナー皿にデザート皿、小ぶりのフィンガーボール。
料理のソースを入れておく注ぎ口と取手の付いたソーシエール、ティータイムに用いる道具一式。
そしてワイングラスやシャンパングラス――――。
カカシの部屋に隣接する、高価な食器ばかりを収めた小部屋。
設置された細長いテーブルに整然と並べられた各々の食器を柔らかな布を用いて磨き上げていく。
小部屋には窓がなく、光の差さない室内は昼日中であっても暗い。
代わりのように置かれた小さなランプが放つ灯りのみという薄暗がりの中、布と食器の擦れる慎ましやかな音が空間に満ちる。
イルカは口元を結び、一人黙々と食器に向かい合う。
単純作業ではあるが不思議とこの時間を厭わしいと思ったことはなかった。
丁寧に磨けば磨くほど表面を覆っていた曇りが取れて銀や硝子の本来持つ輝きが戻ってくる。
ランプの灯りを弾き、どこか艶めかしいまでの光沢を帯びていく様に遣り甲斐を感じるのだ。
ある時、静かな空間にぎぃ、と鈍く軋むような音が割り込んでくる。
磨いていたフォークから顔を上げたイルカは、テーブルを挟んだ向かいの扉にカカシの姿があるのを認めた。
イルカの磨いた食器は管理する立場のカカシが一度必ずチェックを入れるのが決まりとなっているのだ。
ランプの灯りによって相手の顔には深い陰影が刻まれていた。
陰影の所為で常より険しいものとして映る表情を前に、イルカは身構えずにいられない。
この作業において最も緊張する時間がこれから始まるのだから。
無言のままテーブルに並べられた食器を一通り眺めた後、カカシは徐に胸ポケットからポケットチーフを取り出す。
選ばれたのは、手近にあったスープスプーンだった。
その内の一本をチーフで挟むようにしてそっと取り上げる。
ランプの灯りにスプーンの表裏、また柄の部分を翳して金属の曇りや光沢の具合を確かめていく。
妥協という言葉とは無縁の鋭い眼差しが真直ぐスプーンに注がれる。
長いようにも短いようにも感じる時間の後、カカシは最後の審判を告げるかの如く重々しく口を開いた。
「・・・きちんと磨けているようですね」
スプーンを静かにテーブルへ戻す相手の、白い指先を見つめながらイルカは漸く胸を撫で下ろす。
以前はここで幾度となくやり直しを命じられていたのだ。
強張っていた表情を緩めたイルカに向け、またもカカシから信じられない言葉が掛かった。
「そろそろ食器全般の管理をイルカ、あなたに任せようと思います」
「本当ですかっ!?」
イルカが思わず声を上げたのも無理のないことであった。
主人の食器の管理は、執事の大切な仕事のひとつ。
また、高価な食器を任されるということはカカシから信頼されている証でもある。
些細ではあるが一歩執事の道に近付けた気がして舞い上がる心持ちを抑えることが出来なかった。
「ありがとうございます、頑張ります!」
イルカが意気込んで告げれば、カカシは驚いた様子で瞠目してみせた。
しかし、すぐにそれは緩やかに細められる。
端麗な容貌に浮かぶ柔らかな表情を前にして、イルカは動揺せずにいられない。
普段、滅多なことでは表情を変えぬカカシである。
斯様な顔を向けられるのはイルカとて初めてのことであったのだ。
動揺の所為か、心臓が煩く鳴り出す。つられるように頬が熱を帯びていく。
それでも相手から視線を逸らせない。
己の状態がおかしいとわかっても、どうとも出来ずにイルカはますます動揺する。
向けられる眼差しに気付いたのか、ある時カカシがつと表情を改めた。
そして取り繕うようにひとつ咳払いをしてみせてから。
「では、残りも頼みましたよ」
言い置いて、まるで逃げるように部屋を出て行く。
一人残されたイルカは、カカシの出て行った扉をぼんやりと眺める。
常らしからぬ相手の様子が、イルカの内に引っ掛かりを残していた。
―――・・先程の表情は一体何を意味するのか。
イルカの疑問は深まるばかりだったが、それに答えてくれる相手は居ない。
ふ、と口を吐いた息は静かな室内に吸い込まれる。
その中でテーブルに並んだ食器が、蟠るイルカの心を映し込むように鈍く光っていた。




蟠るものを抱えながらも時は流れ、日々は滞りなく進んでいく。
季節が夏から秋へと移り変わる頃にはイルカも随分屋敷に馴染んでいた。
日々の職務も過不足なくこなせるようになり、カカシから任される仕事も増えた。
それでも『猫執事』の役職は相変わらず続いている。
自由気儘で神出鬼没なヤマトに振り回され、屋敷内外を探し回る羽目に陥るのにも微塵の変化もない。
困憊しきるイルカに対してヤマトはいつも素知らぬ顔を向けるばかり。
どれだけ世話をしても僅かも懐柔されることなく自らの意のままに動くのが常であった。
犬は主人を待ち猫は僕を待つ、との言葉を噛み締めずにいられないイルカだ。
但し、主人であるサイや懐いているテンゾウには向ける態度が全く異なる。
甘い声を上げ、相手の足に自ら身体を擦り寄せる仕草を目にする度に理不尽なものを覚えずにいられないのだった。



その日も、所用で外出するというサイの足元にヤマトは身体を擦り寄せていた。
主人が出掛けるのがわかるのか、部屋から玄関先にまで付いて来ていたのだ。
そんなヤマトを愛しみの籠った眼差しで眺めていたサイが、イルカに告げる。
「帰りは夜になる。ヤマトを頼んだよ」
「かしこまりました。お任せください。」
毎回、出掛ける前に必ず一度は為される遣り取りである。
イルカの言葉に小さく頷き、サイは屋敷を出ていった。
サイはこうして一人で外出することがあった。
身分の高い者は外出時に最低でも一人は従者を付けるのが普通とされているのに、だ。
「何をするにも一人の方が気楽だし、都合も良いからね」
というのが当人の弁である。
執事であるカカシもこの件については既に諦めているのか何も言わない。
そういった部分も周囲に変人扱いされる要因になっているのだろうが、サイの気負わない様子をイルカは好ましいと思っていた。
主人を見送ってから、イルカは屋敷の仕事と並行して日課である毛並みのブラッシングを済ませようとヤマトを探す。
しかしながら屋敷内のどこを探しても姿が見えなかった。
また外に出ているのだろうかとイルカは庭園へ足を向ける。
肌を刺す強い陽射しはとうに去り、今は秋らしく包み込むように穏やかな陽光が注いでいる。
空も高くなり、庭園内を彩る木々や草花の盛りも秋のものへと移ろっていた。
その中で、ヤマトを探して歩きながらイルカは声を張り上げる。
「ヤマトさまー! どちらにおいでですかー!?」
呼び掛ける声は虚しく緑の中に響くばかりだった。
それでもイルカは根気強く方々に首を巡らせる。
ヤマトが好んで登りそうな木を見上げ、身を隠せる茂みをひとつひとつ覗き込み、アカシアの大木がある芝生の隅々に目を遣る。
けれど姿はおろか、答える声さえ返ってこない。
すっかり途方に暮れたイルカは最後、縋るような思いで庭師を探す。
テンゾウであればヤマトを呼び寄せられるかもしれないと期待したのだ。
但し、こんな時に限ってどこを探しても相手の姿がない。
未だ日の高い時間であるから庭園に居ると思っていた分、肩透かしを食った心持ちになる。
一体どこにいるのだろう。
庭師を探して庭園を歩き回る内、イルカはふと探していない場所の存在に気付く。
庭園の隅、屋敷から一等離れた位置に庭師専用の作業小屋が設えてあるのを思い出したのだ。
庭仕事に用いる道具一式が収められたそこは、テンゾウの自室も兼ねている。
イルカを含め他の使用人は皆屋敷の中に自室があるが、庭師だけは作業小屋で生活をしていた。
その方が何かと都合が良い、と話していたのを何かの機会に聞いた覚えもある。
イルカはすぐに作業小屋へと向かった。
庭園の隅を目指して歩いていると、壁にびっしりと蔦の絡んだ木造の小屋が見えてきた。
秋らしく色を変えつつある葉の間からところどころ年月を経た木材の肌が覗いている。
それを横目に見ながら小屋の入口に足を向けたところで、イルカはそこに人影があるのを認めた。
テンゾウかと思い傍へ寄れば、人影がひとつでないと知って訝る。
庭園内は存外に広い。
管理を一手に担うテンゾウ以外、庭園の外れまでわざわざ足を向ける者はいなかった。
平素、主人からも庭園の管理について彼是と言われているだけに余計である。
もしテンゾウに用事がある場合でも食事の時間まで待てば良かった。
食事は使用人全員が屋敷の決められた場所で摂る決まりになっている。
その為、皆そこで用事を済ませるのが常だった。
だからこそ目前にふたつ人影があるという事実がイルカには不思議で仕方ないのだ。
一体誰だろうと人影に向かって近付いていく。
近付くにつれ徐々に明確になり始めた人影の、ひとつはやはりテンゾウのもの。
そしてもうひとつの人影の容貌がはっきりとした瞬間、イルカの足は止まる。
動揺のあまり足が縺れて転びそうになりながら慌てて傍にある木の陰に身を隠した。
もうひとつの人影、それは―――出掛けている筈のサイのものであったのだ。
サイは朝に出掛けたままの格好、一方のテンゾウはいつもと変わらぬ庭作業に用いる素朴な服装である。
向かい合うようにして並ぶ二人の足の間には探していたヤマトの姿もある。
木の陰から様子を窺いつつ、一切の状況が掴めないイルカは混乱していた。
それもその筈、サイとテンゾウは互いの背に腕を回して深く抱き合っていたのだから。
テンゾウより僅かに長身のサイが顔を覗き込むようにする、その位置さえ近い。
ぴたりと身体を密着させて何某かを語らう姿からはいかにも親密な様子が窺えた。
何故、どうして。
疑問ばかりが浮かぶ中で、イルカを更に混乱させる出来事が起こる。
元々近かった顔と顔がイルカの見ている前で重なった。
二人が口吻けを交わしているのだと気付くのに、約数秒。
イルカは弾かれたように木の陰に引込んでいた。
庭園を歩き回って生じたのではない汗が背中を伝うのを感じる。
心臓が喉元にまでせり上がっていると錯覚するほどに動悸が激しく、息苦しい。
イルカは喉元を両手で押さえながら、先程から働くことを完全に放棄した頭で以て必死に考える。
今し方目にしたものがどんな意味を持つのか。
混乱を極めた頭では完全に理解出来ないまでも、見てはいけない類のものであると十分に伝わっていた。
地面にへたり込みそうになる身体をどうにか支えて、この場から離れることに漸く思い至ったイルカが一歩を踏み出そうとした時。
なぁん、と足元から声がした。
ぎくりと身体を強張らせたイルカは、そのままギギギと鈍く軋む音さえ聞かれそうな動作で足元を見遣る。
目に映ったのは、ヤマトの姿。
いつの間にか二人の元を離れてイルカのところまで来ていたらしい。
思わず叫び出しそうになったが、咄嗟に口へ手を押し当てることで堪える。
衝動を一通りやり過ごした後、口から手を離したイルカは小声ながらヤマトに向けて必死に懇願する。
「ここに居てはいけません!すぐにお二人の元へお戻りください、ヤマト様・・・っ!!」
しかしながら懸命なイルカを嘲笑うように、背後から「誰だ!」と鋭い声が飛んでくる。
それは紛れもなく主人であるサイのものだった。
どうしたものかと回転の悪い頭で考えてみるものの、答えらしい答えは出てこない。
その間にも、イルカが身を隠す木へ二人分の足音が近付いてくるのがわかった。

―――・・ええい、ままよ!

イルカは覚悟を決めると木の陰から姿を見せた。
すっかり驚倒したらしい二人の顔を目に入れながら、極まりの悪い心持ちで謝罪と弁解の言葉を口にする。
「申し訳ございません。その、決して覗くつもりはなかったのです・・・」
最後は消え入りそうな声で告げれば、サイとテンゾウは互いに顔を見合わせた。
それ以上目前の様子を見てはいられず、イルカは俯く。
「イルカ」
名を呼ばれておずおずと顔を上げた時、真直ぐに向けられる眼差しとかち合う。
身構えるイルカに対して声を掛けたサイは静かに息を吐いてみせた。
「お前に訊きたいこともあるが、ここで話すのは少し差障りがあるね」
そう言うと、視線を背後の小屋へと投げる。
どうやら中で話そうということらしい。
イルカが口を開けずにいる間に決まりだと言わんばかりの態で踵を返したサイが小屋へ向かって歩いてゆく。
その後にテンゾウとヤマトも続き、僅かに遅れてイルカも後を追う。
二人と一匹、またイルカもずっと無言だった。
自分はこれからどうなるのだろう。
怯える心の所為か、小屋までの僅かな距離で幾度となく足が止まりそうになる。
それでも動きの悪い足を引き摺るようにして、イルカは小屋の中へと入った。










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