黒猫の輪舞曲【ロンド・オブ・ブラックキャット】




作業小屋の中は殺風景そのものだった。
壁や床に並べられた庭作業に使うと思しき道具の中に、極僅かに調度品が置かれているのみである。
部屋の片隅には古びた粗末なテーブルと向かい合うようにして椅子がふたつ置かれていた。
片側の椅子には既にサイが座っており、イルカは空いた椅子を勧められる。
しかしながら従者の分際で仕える主人と同じ卓に着くのも躊躇われてしまう。
いつもなら助け舟を出してくれるだろうテンゾウは、室内に入って早々別の部屋へと姿を消している。
困惑するイルカに、サイの膝上を我が物顔で陣取っているヤマトも『早くなさい』とばかりに長い尻尾を大きく振って主人の膝に打ち付けている。
最早逃げ場もなく、イルカは仕方なしに椅子へと腰掛けた。
主人と二人きりで相対する空気の重さに半ば潰されそうになっているところで。

「―――で、お前はどうしてあそこに居たんだ?」

サイから改めて告げられた言葉に、身を縮ませるようにして座るイルカの肩がびくり、と竦む。
「も、申し訳ございません。サイ様が戻られるまでにヤマト様のブラッシングを済ませようとお姿を探しておりまして・・・」
膝に置いていた手を固く握り締め、震える声で告げる。
すると目前のサイからふと笑うような気配が伝わった。
「斯様に硬くならなくていい。別に取って食おうという訳ではないのだから。しかしヤマトか・・・盲点だったな」
怒った風もなく、それどころか寧ろ面白いと言わんばかりの口調だった。
イルカがその顔を窺えば、どこか穏やかな表情で以て膝上のヤマトを撫でていた。
喉元を撫でられ、ヤマトも機嫌が良さそうにぐるぐると喉を鳴らしている。
「驚いたか?」
唐突に、サイが口を開く。主語さえもない短い問い掛けが、先程のことを差しているのは明白だった。
勿論驚いたのは確かである。ただ、それを素直に口に出して良いものか。
イルカが返答に窮する内、不意にサイが噴き出した。
「お前は少しも嘘が吐けないらしいな。皆、顔に出ている」
いかにも楽しげに告げられ、イルカは顔に熱が集まるのを感じた。それは幼い頃からよく言われていたことでもあったのだ。
隠し事の出来ない己を恨めしく思う間にも目前のサイは浮かんだ笑みを一層深くする。
「・・・そこまでにしてあげてくださいね。イルカが困っています」
助け舟を出すように主人を窘めたのは、別の部屋から出てきたテンゾウだった。
手には使い込まれた風の紅茶セットが一式載ったトレイを持っている。
「イルカは真面目なんですから、あまり揶うと可哀想ですよ」
「それもそうだな」
テンゾウの言葉にサイはあっさり納得した様子を見せる。
追及が逸れて安堵するものの、どうしても理不尽なものを覚えずにいられないイルカだ。
そんなイルカを気に掛けるでもなく、テンゾウは手に持っていたトレイをテーブルへと置いた。
シンプルな白いティーポットから色も形も異なる三つのカップに紅茶が注がれる。
カップに満たされた紅茶は湯気と共に芳しい香りを室内に広げていく。
テンゾウはその内のひとつをソーサーと共にサイの前へ置き、次いでイルカの前にも置いた。
「お前も飲みなさい。テンゾウの淹れる紅茶は美味しい」
サーブされた紅茶に上品な仕草で口を付けるサイがイルカを促す。
それに恐る恐るといった態でティーカップを手に取った時。
「まあ、先程のことを言い訳するつもりはない。私とテンゾウはお前が見たままの関係だからね」
至って軽い調子で告げられた内容に、すっかり動揺したイルカは手に持ったカップを取り落としそうになった。
慌てふためきながらもどうにか最悪の事態は回避する。
結局紅茶を口にしないままカップをソーサーに戻し、イルカが安堵の息を吐いているところで。
「・・・お前は本当にわかり易い」
一連の様子を目にしたサイはくつくつと喉奥を震わせるように笑う。
そんな相手に対して、部屋の隅から古びた椅子を運んできたテンゾウが肩を竦めてみせた。
笑い続ける主人の肩に軽く手を乗せることで窘めた後、テーブルの傍に置いた椅子へ腰掛けてイルカに向かい合う。
「イルカが驚いたのも無理のないことだと思う。でも僕達は決して軽い気持ちで一緒に居る訳ではないんだよ」
そう言ってテンゾウはイルカの知らない昔の話を聞かせた。

「サイ様は昔、とても身体が弱かったんだ。病気がちで殆ど外に出られなくてね。そんなサイ様の為に父君が使用人の子供を三人、傍仕えとして付けたんだよ。その内の一人が僕だった。僕は元々、サイ様の生家で働いていた庭師の子供だったからね。傍付きになった僕は父親の目を盗んで庭に咲く花を持って行ったものだった。少しでもサイ様の心慰になればと思ってね。サイ様はいつもそれを喜んでくれたよ。その顔を見るのが嬉しくて、せっせと花を持って行く内に部屋中が花で溢れ返ったこともあったっけ。サイ様の乳母や僕の父親に酷く叱られたけど、それでも僕は懲りずに花を持って行った。サイ様が成長して身体が健やかになってからも、ずっと。それが身分の違う僕に出来る、唯一のことだったから」

どこか懐かしそうに言って、テンゾウが目を細めている。
そんなテンゾウの言葉を継ぐように、サイも口を開く。

「私も、テンゾウから届けられる花をいつも心待ちにしていたものだ。・・・ああ、少し語弊があるな。私は、花を持って来るテンゾウこそを心待ちにしていたのだから。テンゾウは外の世界の素晴らしい物事を沢山知っていて、いつも私に話して聞かせてくれた。毎回心躍るようだったよ。聞く度に、テンゾウと共に外へ出たいと望むほどにね。だからこそある時私はテンゾウが誰より特別の存在であると気付いた。友人でも、使用人としてでもなく、ただ一人の相手として。陳腐な言い様をすれば、誰より愛おしく思ったのさ。成長したテンゾウが私の傍仕えを解かれ、父親と同じ庭師として働くようになってからもその想いは変わらなかった。勿論、それについて様々言う者もあったが私は構わなかった。その時にはもう、テンゾウを離す気などさらさらなかったからね」

そう言うとサイはテンゾウを見つめる。
隠されない熱を帯びた眼差しを受けて柔らかく笑みを返すテンゾウに目を遣ったまま、サイは続ける。

「ただ、私の父が亡くなって家督を継ぐという話が出た時は参ったよ。家の為にと血筋が確かというだけの女を宛がわれそうになってね。従う気もなかった私は迷わず当主の座を捨てることを選び、テンゾウともう一人使用人を連れて屋敷を出た。家督は父の兄弟か親類の誰かが継げば済む話だが、テンゾウの代わりは誰もいない。何を捨てても、私にはテンゾウが必要だった」

常にはない熱情的な口調で語ったサイは、伸ばした手でテンゾウの頬の形をなぞるようにゆっくりと滑らせる。
行為を受け入れるテンゾウの顔には、深く満ち足りた表情が浮かんでいた。
されるがままになることで、一言も口にせずともサイの言葉を肯定している雰囲気すらある。
何人たりとも間に割って入るのを許さないような空気を漂わせる二人の様子。
それをただ見守るばかりのイルカに、テンゾウが不意に零す。
「・・・軽蔑するかい?」
「いいえ、そんなことは決してありません!」
間髪を入れずにイルカは答える。
最初こそ驚いたが、事情を知った今となれば話は異なる。
性別や身分の違いを越えて、寄り添うサイとテンゾウは正しく比翼連理そのものにイルカの目には映っていた。
そんなイルカの様子に、サイがくすりと笑みを漏らす。
「ただ、カカシ以外の使用人は誰もこれを知らないから、他言は控えてくれ」
「カカシさんはご存知なのですね」
驚いて訊ね返せば、サイはどこか可笑しそうな様子を崩さないまま答える。
「カカシはテンゾウと同じで、ずっと私の傍仕えをしていたからね。で、先程の返答は?」
「はい、誰にも言いません!ご安心ください!!」
鼻息も荒く、意気込んで答えるイルカにサイはちらりとテンゾウを見遣った。
そのまま目線を交わした後、テンゾウが頷き、そっと微笑む。
特別言葉はないが、互いに通じ合った雰囲気がそこにはある。
一人取り残されたイルカがぱちぱちと目を瞬かせていると、視線に気付いたらしいテンゾウが顔に苦笑いを浮かべた。

「気分を悪くさせたかな。実は僕達、イルカによく似た相手を知っていたものだから」
「私に似た方、ですか」
「うん。さっきサイ様の傍に付いた子供は三人と言ったよね。一人は僕、もう一人はカカシさん。そしてもう一人、カカシさんと同い年でオビトさんという人が居たんだ。オビトさんは何をするにも一生懸命な頑張り屋でね。いつも明るくて、人が好いんだけどその分馬鹿正直で、嘘なんてちっとも吐けなくて。そんなオビトさんをサイ様も僕も好きだった。勿論、カカシさんもね」

カカシの名が出て、イルカはどきりとする。何かが、イルカの中で引っ掛かっていた。
そんなイルカの様子には気付かないサイが、思わずといった風に呟く。
「本当は、オビトもこの屋敷に連れて来てやりたかったが・・・」
表情を曇らせるサイに、テンゾウはテーブルの上に置かれていた手に自らの手を重ねる。
互いに言葉はないが、それでも通ずるものがあるのか、サイの表情が次第に和らいでいく。
しかし部外者であるイルカには何も伝わってこない。イルカはその先にある言葉の続きを知りたいと思った。
「あの、オビトさんは一体・・・?」
おずおずと訊ねるイルカに、テンゾウはそっと目を伏せる。
次いで静かに告げられた言葉に、思わず口を閉ざしていた。
「オビトさんは不慮の事故で亡くなったんだ」
重い沈黙が室内に垂れ込める。心なしか場の空気すら重くなったようだった。
しかしその重い空気と沈黙を破ったのも、またテンゾウだった。

「その話を聞いた時、僕もサイ様もすぐには信じられなかった。本当に突然のことだったから。事故があった時カカシさんが傍に居たらしいんだけど、随分ショックを受けていてね。暫くは誰とも口がきけなくなるほどだった。それ以来、カカシさんは人前で殆ど感情を表に現さなくなったんだ。もしかしたらあの事故を自分の所為だと思ったのかもしれない。カカシさんはああ見えてとても優しい人だから」

沈痛な面持ちで語るテンゾウを、イルカは惘然と眺める。カカシにそんな過去があったことを今迄知らなかったのだ。

「だからイルカがこの屋敷に来た時は驚いたんだ。顔は違うけど、雰囲気が本当にオビトさんそっくりだったから。時々オビトさんが帰ってきたみたいだ、なんて思って。・・・うん、勝手なことを言ってるよね、ごめん。でもイルカと一緒に居る時のカカシさんを見ていると、昔の―――オビトさんが生きていた頃のカカシさんの姿が重なって見えることがあるんだよ」

眉を下げ、どこか泣き笑いのような表情を浮かべるテンゾウにイルカは何も返すことが出来なかった。
テンゾウの言葉に、思い当たる節があったのだ。
カカシからイルカに向けられる瞳。
それが時折、遠くにあるものを眺める様子になっているのを知っていた。
まるでイルカ越しに何かを見るような眼差しは全てオビトという人間に向けられていたものかもしれない。
イルカの姿に重ね合わせて、今はもう存在しない相手の面影をずっと追っていたのだとしたら。
カカシは最初から、イルカを見ながらイルカという人間そのものを見ていなかった、ということだ。
ならばカカシにとって、イルカはオビトの代わりでしかないというのだろうか。
そう思った途端、胸の中にある芯が奇妙に捩れる気がした。
苛立ちや憤りを覚える反面、苦くて遣り切れない感情が虚しさや切なさを伴って胸裏を埋め尽くしていく。
そこで、イルカは気付かされる。
己がカカシをどう想っているのか、またカカシに対して抱く感情の名前さえもはっきりと。


―――カカシが好き、なんて。そんなこと、今この場で知りたくなどなかったのに。


思わず眉を顰めたイルカに、「イルカ?」とテンゾウから声を掛けられる。
どこか心配したような声音にイルカは慌てて繕うような笑みを顔に浮かべた。
「すいません、今迄知らなかった話ばかりで驚いてしまって」
「そうだね。急にこんな話をして悪かった」
「いいえ、そんなことは・・・」
ゆるゆると首を振りながら、今自分は上手く笑えているだろうか、と明後日のことをイルカは考えてみる。
そうしながらも心の内では自覚したばかりの感情が大きく渦を巻いていた。
持て余すばかりの感情を堪えるように、イルカは小さく唇を噛む。
気を抜くと崩れそうな表情を誤魔化す為、テーブルに置かれた紅茶のカップに手を伸ばす。
口を付けた紅茶はすっかり冷めて、味気のない代物になっていた。
それを蟠る感情と共に、無理矢理喉奥へと流し込んだ。









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