黒猫の輪舞曲【ロンド・オブ・ブラックキャット】




主人と庭師の関係、また執事の過去と己の抱く感情の自覚。
衝撃の事実を次々に突き付けられた翌日の晩。
一日の仕事を終えたイルカは直々の呼び出しを受けてカカシの部屋に居た。
本来ならば決して受けたくはない申し出であったが、己より上位の者からの誘いを断るのは難しい。それが憎からず想いを寄せる相手であれば尚更であろう。
カカシから勧められて、部屋にある一つ足の小さなテーブルに差し向かいになるよう座る。
日付変更線を跨ぐ間際、夜の深い闇に沈んだ屋敷内は人の気配も薄い。
主人どころか使用人も皆寝静まっている時刻にこうして二人きりで顔を突き合わせている事実。
それがイルカには堪らなく滑稽で、可笑しいことのように思えた。
そんな思惑になど気付く様子もなく、カカシは先程から自ら用意したワインの話を続けている。執事は主人のワインセラーを管理する立場であると共に、管理するワインを飲むことも認められているのだ。
ワインの知識など皆無に等しいイルカだが、それでも今回用意されたものが上等の品らしいことはカカシの口ぶりから伝わってくる。
無駄のない手つきで栓を開け、テーブルに置かれたふたつのワイングラスにカカシの手ずから注がれる液体。
ランプの灯りを受けたそれは血のように深く、またどろりと粘度を帯びてイルカの目に映った。
カカシはグラスの片割れを手に取ると、僅かに傾けて色を、次いで軽く回すようにして香りを確かめている。
ワインはおろか酒自体碌に口にしたことのないイルカは、恐る恐るグラスを手に取って液体の味を確かめる。
独特の渋みと共に飲み下した喉や腹の辺りが熱を帯びる感覚に、思わず眉根に皺が寄る。
イルカとは対照的に、同じものを口に含んだカカシは満足そうに頷いていた。
ワインを飲みつけている人間にはきっと美味しいものなのだろう。
そんなことを思いながら相手を眺めていた時、徐にグラスを置いたカカシが真直ぐイルカを見た。

「―――・・今日私が呼び出した用件をイルカ、あなたはわかっていますね」

そう切り出され、イルカは頷く。
「サイ様と、テンゾウさんの件、でしょうか」
前日、連れ立つように庭園の作業小屋から屋敷へと戻ったサイとイルカに、出迎えたカカシは眉を顰めてみせた。
しかしながらサイはあくまで気安く「今日からイルカも共有者だ」と告げたのだ。
それだけで伝わるものがあったのか、すぐに表情を改めたカカシは「左様でございますか」と返答したのみ。双方の遣り取りにイルカは拍子抜けしたほどだった。
但し、カカシは内心で立腹していたのかもしれない。雇われて日の浅い一介の執事補佐が主人の重大な秘密を知ってしまったのだ。
隠しきれない緊張で身を硬くするイルカに、カカシは僅かも表情を変えぬまま問いかける。
「単刀直入に訊きます。あなたはあの二人の姿を見てどう思いましたか」
カカシの言葉にイルカは少しばかり逡巡する。正直な想いを口にして良いかどうか迷ったのだ。
それでも先程から、ひたと視線を逸らすことなくカカシはイルカを見つめている。
そんな相手に対して偽りを口にするなどとても出来ないと感じていた。
「最初は驚きました。まさかそんなことが、と信じられなくて。でもお二人を見ている内に、ぴったりといいますか・・・とてもお似合いだと思うようになりました」
サイがテンゾウの前で見せる表情や仕草と、また逆にテンゾウがサイの前で見せる姿。
イルカはそれを垣間見たに過ぎない。
ただ、二人の間に流れていたのは互いを心から想い合う人間の持つ確かな空気であった。
サイとテンゾウは深く愛し合っている。第三者であるイルカにもその事実は十分に伝わっていた。
また、イルカは主人であるサイも、テンゾウのことも慕わしいと思っている。
「私はお二人に幸せになっていただきたいのです。だからこそ、誓って誰にも口外するつもりはありません」
迷いなく言い切ったイルカに、カカシは出抜けに表情を緩めてみせた。
不意打ちのそれにイルカの心臓は激しく脈打つが、表情には出さないよう努める。
「・・・それならば良い。私は執事として、また友として二人の秘密を守りたいのです」
そう告げたカカシの顔に浮かぶのは常の静まった、執事然とした表情ではなかった。
柔らかに目許を緩めた様子は、冷静沈着で非の打ちどころがないと言われる相手を妙に人間臭く見せた。それは深い情で以て友を思い遣る一人の男、と呼ぶに相応しい顔付きだった。
改めて三人の強い結び付きを感じたイルカはふと、テンゾウが口にした言葉を思い出していた。
「・・・カカシさんは優しいのですね」
何気なく告げたイルカに、カカシは驚いたように眉を上げてみせた。
しかしその後で相手の口から齎された言葉を耳にし、胸中は黒い靄に覆われる。
「私は優しくなどありません。それにこれは亡き友との約束でもあるのです」
「それは・・・オビトさんのこと、ですか」
「ええ。あの二人から聞いたのですね」
イルカが頷くとカカシはイルカからそっと目線を外した。宙に浮かべたまま定まらない視点と相俟って、それはどこか遠くにあるものを眺める様子にも取れた。

「オビトと私は同い年ということもあり、使用人の子供の中では一番近しい相手でした。天真爛漫だったオビトは当主様の覚えも良く、私とテンゾウも引き込まれる形でサイ様の傍仕えをするようになったのです。その頃からサイ様とテンゾウは年若い私達でもわかるほど互いに惹かれ合っている様子でした。ですから気を利かせて席を外すこともままありました。二人からそれぞれへの想いを打ち明けられた時も、私達は漸くなるようになったのだと言い合ったほどで・・・」

そこまで言ったカカシは一度口を噤んだ。そして些か極まりが悪そうに咳払いをしてみせる。

「・・・失礼、話が逸れましたね。そんな二人を私とオビトは心から祝福していました。年齢や身分は違えど、私達四人はそれぞれを友として認め合っていましたので。だからこそ私とオビトは二人の関係を秘事にしようと誓い合ったのです。サイ様は貴族の身、一介の使用人であるテンゾウとは埋められない身分の差があります。また、二人が同性であるのも大きな問題でした。もし事実が周囲に知れ渡ったなら、二人はたちどころに離され二度と会うことが叶わなくなったでしょう。私と同様にオビトも友として二人を守ってやりたいとの思いが強かったのです。それから私達は周囲の目を欺く為に様々な策を講じました。あまり褒められたものでない行いも、二人の為だと思えば何であろうと出来たのです。そんな私達の尽力の賜物か、時を経るにつれ二人は想いを深めていきました。それを私とオビトは微笑ましく眺めたものでした」

当時を思い出しているのか、カカシの口調も顔に浮かぶ表情もどこか柔らかい。
イルカは内心で面白くないものを覚えずにいられなかった。己の狭量さを自覚しつつ、オビトに対する悋気を落ちつけようと深く長く息を吐く。
そんなイルカの様子には気付いた風もなく、カカシが続ける。
「今ではあの通り、二人はオビトが望んだようになりました。けれど・・・オビトはその姿を目にすることはなかったのです」
不意に低く沈み込んだ声調に、イルカはカカシを見遣る。
顔に浮かぶ寂しげな表情を前にして、己の胸が鈍く軋み出すのをイルカは感じていた。
「不慮の、事故だったと聞きました」
「そうです。成長した私達はサイ様の傍仕えを離れ、フットマンとして屋敷の下働きをするようになっていました。フットマンの仕事が多岐に渡ることはイルカ、あなたも承知していますね」
カカシの言葉に、イルカは頷く。イルカは元々、この屋敷に召し抱えられる前は別の屋敷でフットマンとして働いていたのだ。
様々な雑務に追われ、朝から晩まで休みなく屋敷の内外を駆け回っていたのは未だ鮮明に記憶に残っている。

「私はその日、オビトと共に屋敷内にあるゲストルームのセッティングを行っていました。屋敷で催された盛大なパーティーに多くの客人を招くことになっていたのです。広い屋敷には数多のゲストルームがあり、そのひとつひとつに清掃が行き届いているか、隅に汚れや埃が残っていないか、テーブルクロスやベッドのシーツに皺や乱れはないか等、細かい確認が必要でした。その後で今度は室内を花で飾りつけ調度品と併せて美しくコーディネイトしていくのです。
勿論、客人が多ければ作業にも時間が掛ります。しかし私達は他にも沢山の仕事を申し付けられており、決して愚図愚図している訳にはいかなかったのです。私達は別個に分かれて作業をすることにしました。その方が効率良く仕事がこなせると考えたからです。

作業中のある時、私は室内でどさり、と質量のあるものが落ちるような音を聞きました。あまりに大きな音でしたから、驚いた私は作業の手を止めて音が聞こえてきた窓辺へと寄り外を眺めました。すると覗き込んだ地面にオビトが倒れ伏しているのを見たのです。
私達はその時、二階にあるゲストルームで作業をしていました。ですからオビトが上から落ちたのだとすぐに察しがつきました。私は半ば叫ぶようにオビトの名を呼び、急いで階下に降りました。私が駆け付ける間に、音を聞き付けたのか他の使用人達も外へ出ていました。集まる者達を押し遣り、私はオビトの傍へ寄りました。しかし幾度呼び掛けようと閉じられた瞼が開くことはありませんでした。

そんな私の目に、伏す姿勢で倒れるオビトの鼻からどろりと紅いものが垂れて地面に流れ落ちているのが映り込みました。それは禍々しいまでに鮮やかな色でした。恐ろしい予感が脳裏を過り、全身から血の気が引くのがわかりました。私は酷く取り乱してオビトの傍らに膝を付くとその身体に手を掛けていました。揺す振って無理にでも起こそうと思ったのです。
けれど行動に移す前に周りに居た者達から止められました。動かしてはいけない、安静にしておくべきだと口々に言われましたが、冷静さを失った私には理解出来ませんでした。このままオビトを放っておいて見殺しにするつもりなのか。怒りと焦りで身体を押さえ付ける者達に反発し、手を振り解こうと必死に足掻きました。

私が拘束されている目前で、オビトは誰かが用意したらしいシーツと二本の棒とを用いた急拵えの担架に乗せられて運ばれていきました。私も付いていきたいように思いましたが、屋敷の執事に命じられて作業に戻らざるを得ませんでした。来客を迎える時間はもう間近に迫っていたのです。それでも為すべき仕事は山のようにあり、オビトが抜けた分も完璧にやり遂げなくてはなりませんでした。
その後、私は何をどのように作業したのか、少しも覚えてはいません。それでも全ての支度が済み、来客をもてなす為の料理の給仕や酒の準備に追われて独楽鼠のように慌ただしく走り回る間に、夜は更けていきました。随分遅くまでゲームや会話を楽しんでいた主人や客人達が皆寝静まった頃―――私はオビトの死を知らされました。窓から落ちた際の、打ちどころが悪かったのだといいます。

ベッドに冷たくなって横たわるオビトを前にしても、私はその死を信じることが出来ませんでした。眠っていると言われても信じてしまえそうなほど相手の顔は穏やかだったのです。身体は草臥れ切っていましたが、私の頭は奇妙に冴えたままでした。ベッドに横たわるオビトを見つめ、私は薄ぼんやりと朝の出来事を思い返していました。
その日の朝、私とオビトはいつものように顔を合わせて作業の段取りを確認しあっていたのです。そこで私はオビトの体調が優れないのをなんとなく悟っていました。私だからわかったのではなく、顔色を見れば誰もが一目瞭然の事実だったのです。しかし心配する私にもオビトは「大丈夫」と繰り返すばかりでした。オビトは誰かを心配することはあっても自らのことを心配されるのを何より毛嫌いしていたのです。
・・・オビトが窓から落ちた原因は、未だわかりません。それでもあの時、私が体調の優れないオビトをもっと気に掛けていれば。一人きりで作業をさせていなければ。そう思うと遣り切れないものが込み上げてくるのです。サイ様も、テンゾウも、屋敷の使用人達も皆、私は悪くないと言いました。けれど私にはオビトを死に追い遣ったのは自分だという気がしてならないのです」

カカシの独白を聞き終えた後、イルカは暫く口を開くことが出来なかった。
カカシが長きに渡って抱えていた苦衷を知った今、何を告げたとしても相応しくないように思えたのだ。
しかしそれ以上にイルカは動揺していた。
カカシの口から語られるオビトの姿。また、カカシの顔に浮かんだ表情や感情を無理に押し殺した声調。
それは悲痛でありながらもまるで―――最愛の者へと向けられたもののようであったのだ。
黙り込むイルカに、カカシは顔に幾許かの笑みを乗せて向かい合う。
「・・・つまらない話をしました。どうぞ、忘れてください」
静かな口調は、常のカカシと何ら変わることはない。
それでもイルカは気付いていた。
イルカを映すその瞳が、未だオビトの面影を追っていることを。
「カカシさんは、今でもオビトさんを・・・」
口に出してからイルカは後悔することになる。
カカシの顔に薄く浮かんだ笑みが、今は自嘲の色を濃くしていた。それは明らかな、肯定。
やはりカカシは未だに相手のことを。
そう思えば感じた衝撃は更に強いものとなる。
ここにきて漸く、カカシを『優しい』と評したテンゾウの言葉の意味がイルカにも理解出来た気がした。
優しく情が深い故に、カカシの中には幾歳経ても消えも薄まりもせずオビトの存在が息衝いている。
いつまでも相手への思いに縛られ、他を見ることすら出来ない。
もしかすると見ようとも思わないのかもしれない。

―――・・なんて滑稽だろう、とイルカは思う。

そもそもイルカが敵う筈がないのだ。既に亡くなっている人間になど、どうして勝つことが出来よう。
イルカを通してその面影を追い求めるほどにカカシはオビトを愛していた。否、今でも愛しているのだ。
イルカは胸の内が暗く塞いでいくのを感じながら、目前のワイングラスを手に取る。
グラスに残るワインをひと息に呷れば、先程よりも強く感じられる渋みに自然と眉間に皺が寄った。
やがてじわりと熱を帯びる喉に、泣きたいような笑い出したいような、奇妙な感情が湧いてくる。
しかしイルカは口元を引き締めて一人それに耐えた。










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