黒猫の輪舞曲【ロンド・オブ・ブラックキャット】




それからカカシと何を話し、どのように自室まで戻ったのか、イルカには記憶がない。
けれど翌朝イルカは自室のベッドで、いつも起きる時間きっかりに目を覚ましていた。
飲みつけないワインが未だ残っているのか、起き抜けにも関わらず身体が怠くて仕方ない。
そこで不意に昨晩の出来事を思い出し、すぐに頭の隅へと追い遣った。
一度でも深く考え始めれば途端に気分が底まで沈み込みそうな気がしたのだ。
補佐とはいえ、イルカも執事の端くれ。今日も為すべき仕事が待っている。
主人の為に心を砕くならまだしも、私事に心を乱されている場合ではない。
「・・・頑張るぞ!」
自らに言い聞かせるつもりで呟くと、両手でぱちんと頬を張る。
そのままベッドから抜け出したイルカは身支度を整え、定刻に部屋を出た。
届けられた新聞にアイロンを当て、次いでモーニング・ティーの準備に取り掛かる。
一式をワゴンにセットし終えたところでカカシがやって来た。
思わず動揺しそうになるが、イルカは手のひらをきつく握り込むことで堪える。
そのまま小さく息を吐き、顔にぎこちないながらも精一杯の笑みを乗せて相手と向かい合う。
「おはようございます、カカシさん」
「おはよう」
常と変わらぬ執事然とした態で、カカシは挨拶を返してくる。
それに安堵するような、しかし一方ではどこか胸苦しくも感じてしまう。
カカシの挙動にいちいち煩わされるのはイルカばかりなのだろう。
そう考えれば、胸中に湧く複雑な感情を止めることなど出来そうもなかった。
カカシに準備を終えたティーセット一式と新聞とを手渡し、イルカはその場を離れる。
朝の内にこなすべき仕事は他にもあるのだ。
気は塞いでいるが立ち止まっている暇もない。
イルカは自らに与えられた職務をこなしていく。それは半ば意地のような心持ちだった。
しかし時折、制御を許さない力で以て胸へとせり上がる激しい感情の波がある。
主人が使う革靴を磨いていたイルカの手は、そこで思わず止まった。
サイの衣服や靴が収められた衣裳部屋に居る人間は今、イルカ一人。
だからこそ余計に考えてしまう。
昨晩の寂しげな笑みを。
哀切を帯びた静かな口調を。
死して尚深いオビトとの結び付きの様を。
どれほどの思慕を抱こうと、イルカの想いはカカシに受け入れられはしないのだろう。
ならば、自らの心を口にするのさえ不可能だと感じた。
はじめから砕けるとわかっているのならば、尚更。
それでも想うことを止められないのはイルカが女々しい所為なのか、それとも。
遣る瀬無い、と無意識に口から溜息が洩れる。


「主人の靴に向かって溜息を吐くなんて、感心しないね」


掛けられた声に、イルカは飛び上がらんばかりに驚く。
弾かれたように顔を上げたイルカは目の前に立つサイを見てその両目を瞠った。
物想いに耽っていた所為で相手が部屋を訪れていたことにすら気付けなかったらしい。
「し、失礼致しました!申し訳ございません!!」
己の不甲斐なさに舌打ちしたい気分で、床から立ち上がったイルカは主人に向かって頭を下げる。
そんなイルカを、深い夜の中に落ちた、澄んだ闇に似た色を湛えるサイの瞳が静かに映し出す。
雰囲気のある眼差しに射られれば、それ以上言葉など出てこよう筈もない。
まるで己が隠すものを全て見透かされるような居心地の悪さすらある。
「・・・随分顔が疲れているようだ。なんだ、昨日はカカシが寝かせてくれなかったのかい?」
人の悪い笑みと共に揶揄するように告げられ、イルカは衝撃のあまり口が大きく開く。
しかし開いた口からは動揺の所為か一向に言葉が出てこない。
サイは一体どこまで知っているのだろうか。
半ば呆けたような表情を浮かべる使用人を目にし、サイは片眉を持ち上げる。
その後で今度はさも面白いと言わんばかりに唇を吊り上げてみせた。
「おや、冗談のつもりだったのにまさか本当だとは。カカシもすみに置けないじゃないか」
「い、いえ!そのようなことは決して!!」
「まあ、私は構わないよ。そもそも主人が口を出すことではないだろう」
「いいえ、ですから違うのです・・・っ!」
あわあわと言い募る相手にも、サイはあくまで揶う調子を崩さない。
それにイルカがすっかり弱り切って眉を下げたところで。
「お戯れも程々になさいませ」
背後から掛けられた、落ち着き払った声音にイルカはまたも飛び上がらんばかりに驚く。
いつから室内に居たのだろう。
もしかすると先程から一部始終を見ていたのか。
そう考え、イルカは背中に嫌な汗が伝うのを感じていた。
とても背後の、カカシを振り返る勇気は持てない。
但し一方のサイは何食わぬ顔で肩を竦めてみせた。
「おや、怖い。お前も私を悪者にしたいようだね?」
「・・・本日は正午より、画商の不知火様とのお約束がございます。そろそろご用意をさせていただきたいのですが」
「はいはい、わかりました。ではイルカ、ヤマトを頼んだよ」
「かしこまりました」
頭を垂れるイルカの前をサイが通り過ぎていく。
その時背中に視線を感じたが、イルカは振り向くことをしなかった。
否、出来なかったという方が正しいかもしれない。
今はまだ正面からカカシと顔を合わせるのが難しかった。
二人分の足音が部屋の外へと消え、開いた扉が静かに閉じる。
それを耳に捉えて漸く、イルカは深く溜息を吐いた。
イルカの態度のおかしさに相手は勘付いただろうか。
カカシの存在を意識するだけで容易く動揺する己に、胸中が苦いもので満ちる。
これでは想いを断ち切るまでにどれほどの時間を要するのか。
考えれば考えただけ閉塞していく思考に、イルカは再び溜息を吐いていた。






サイがカカシを伴って出掛けた後、イルカは自らの職務と並行して執事不在時に任される仕事を片付けていく。
主人の使う食器を磨き上げ、屋敷中のランプや蝋燭立てを点検し必要があれば補充を行う。
届いた郵便物を相手ごとに仕分け、暖炉や調理場で使う石炭を屋外から屋敷内に運び入れる。
ワインセラーにあるワインを管理台帳と照らし合わせ、紛失等がないかを確かめる―――と為すべき仕事は多岐に渡る。
それらの仕事は、自らの思考に耽りがちなイルカの気を紛らわすのに役立った。
屋敷中を回りながら、淡々と作業を続ける。
それでも作業と作業の合間、ふと出来た空白の時間に考えるのはやはりカカシのこと。
また、己と似ているというオビトの存在も頭から離れずにいる。
考えまいとしても、頭から振り払おうとしても、易々とイルカの中に忍び込んで心の大部分を占めてしまうのだ。

―――優秀な執事は、紳士がスーツを纏うのと同様に執事職を身に纏う。

イルカはふと、屋敷に雇われたばかりの頃にカカシから告げられた言葉を思い出していた。
優秀な執事は、執事という衣を一度纏った以上、それを人前で脱ぎ捨てることは決して許されない。
たとえ何が起ころうとも自己を厳しく戒め、誠心誠意主人に尽くす。
それこそが本来の、執事のあるべき姿なのだ、と。
けれど今のイルカにはその言葉を受け入れることが困難であるように思われた。
ともすれば思考は主人であるサイではなくカカシへと向かい、また報われない自らの想いに沈み込んでしまう。
これでカカシのような執事を目指そうとは笑い話にしかならないだろう。
そう自嘲気味に思う反面、仕様の無いことではないか、と開き直る心も存在する。
カカシへの想いを自覚した途端に叶わぬものだと知れたのだ。
諦めるしかない想いの遣り場がどこにも存在しないという現実。
だからといって簡単に無きものに出来る筈もない。
堂々巡りを続ける思考に何度目になるともしれない溜息を吐き、完全に止まっていた手に気付いて漸く作業を再開する。
そんなことを繰り返しながら一通りの屋敷仕事を終え、今度は『猫執事』としての役目に移る。
日課であるブラッシングも近頃は随分と気を遣っている。
季節の変わり目に掛かる所為か、ヤマトの体毛の抜け方が酷いのだ。
放っておけば其処彼処に抜け毛が散っており、屋敷の清掃を行うハウスメイドから彼是言われることも多い。
また煩く言われない内にとイルカはヤマトを探す。
しかし屋敷のどこにもその姿を見出せず、庭園へと足を向けた。
「ヤマトさまー、どちらにおいでですかー?」
名を呼びながら探し歩く内、一定の間隔を置いて整然と並ぶ木々の中に見慣れた麦わら帽子を見付けた。
形を整える為の刈り込みを行っているらしく、柄の長い刈込鋏を用いるテンゾウの足元には刈られた枝葉が無造作に散らばっている。
「テンゾウさん!」
「やあ。なんだい、また猫探しかい?」
作業の手を止めたテンゾウからまるで挨拶の一環のように告げられ、イルカは苦笑する。
「そうなんです。どこかでヤマト様を見掛けませんでしたか」
訊ねれば、テンゾウは僅かに首を傾げて思案する様子をみせた。
「・・・うーん、今日は一度も見掛けていない気がするなあ」
「そうですか。一体どちらにいらっしゃるんだろう」
イルカが弱り切った声を出したところで、なぁん、と聞き覚えのある鳴き声が耳に届く。
それにテンゾウと顔を見合わせた後、イルカは改めて「ヤマトさまー!」と呼び掛ける。
すると応えるように鳴き声が返ってくる。
声の届く範囲からそう遠くでないと推測出来るものの、しかしどこから聞こえのるか掴めない。
イルカはテンゾウと共に彼方此方へ首を巡らせ、ヤマトの姿を探す。
「あっ、あれ!」
いち早く声を上げたテンゾウが指である方向を示す。
指す先にあったのは、芝生の中に聳えるアカシアの大木。
空に向かって腕を伸ばすように多くの枝葉を広げる、その天辺近くに蠢く小さな黒い影。
すぐにイルカは芝生を横切って木の下まで駆け寄る。
「ヤマトさまー!」
下から呼び掛けるものの、ヤマトは一向に木から降りてこようとしない。
枝の上をうろうろと落ち着きなく歩きながら、どこか途方に暮れた風の声を上げ続けている。
「・・・もしかして、降りられなくなったのかな」
イルカの後を追いかけてきたテンゾウがぽつりと呟く。
同じことを考えていたイルカも思わず眉を顰める。
木に登るのを好むヤマトが登ったきり降りられなくなった可能性は十分に考えられたのだ。
「でも、今ある梯子ではあそこまで届かないんだよね・・・」
ヤマトの居る枝を見上げながらテンゾウが苦々しげに零す。
下から見上げるイルカの目にも頭上の枝は随分と高く、また遠いものに映っていた。
イルカ達が為す術なく佇む間も、悲痛な響きを帯びる声を上げながらヤマトが枝の上を歩き回る。
その度に然程太くない枝が容赦なく撓り、揺れる。
これではいつ足を踏み外してもおかしくないのかもしれない。

―――ならば一刻も早く、ヤマト様を下ろして差し上げなくては。

意を決したイルカは、着ていた上着を脱ぐと芝生の上へ置いた。
ウエストコートは着けたままシャツの袖を捲り上げ、靴と靴下とを脱ぎ捨てる。
「イルカ、何をするつもりだい?」
一連の様子に目を丸くするテンゾウに、下衣の裾を折り上げながらイルカは短く答える。
「木に登ります」
「大丈夫なの?あんなに高いところなんだよ」
「こう見えても子供の頃、よく木に登って遊んでいたんです。それに高いところは案外得意なんですよ」
心配するテンゾウにも悪戯っぽく笑みを返して、イルカは木の前に立つ。
もう何年も木登りはしていないが、梯子が届かない以上ヤマトを助け出す方法はこれしかないだろう。
イルカは両腕を木に回し、己を落ちつける為に一度小さく息を吐く。
そして胸をぴったり幹に押し付けると両脚で幹を挟んで木を登っていった。
身体が幹から離れないよう注意しながら腕と上体を伸ばし、下半身を持ち上げる。
上へ、上へと無心に木を登る内、ヤマトの居る枝が近付く。
漸く枝の傍らへ辿り着いたイルカは幹に張り付いたまま腕を一杯に伸ばす。
しかし何故かヤマトはイルカの手が届かない枝先まで逃げてしまう。
名を呼んでみるも、そこから微塵も動く気配が見られない。
どうやら高所と不安定な足場に怯え、助けに来た人間にさえ警戒心を抱いているらしい。
身体を支える腕や脚が少しずつ痺れ出すのを感じながら、イルカは眉間に皺を寄せる。
けれどこれでは埒が明かない。
このまま時間が経てばヤマトを助け出せずに木を下りることになってしまう。
仕方なくイルカはもう少し木を登り、脚を幹に絡ませたままでヤマトの居る枝へ片腕を引っ掛けた。
腕が掛かった途端、然して太くもない枝がみしりと鈍く軋んで撓む。
それに息を呑みながら、イルカは空いていた手をヤマトに向けて目一杯伸ばした。
すると伸ばした指先に触れる柔らかな毛の感触。
そのまま毛皮ごと掌で鷲掴み、イルカは強引にヤマトの身体を手近に引き寄せる。
しかしそこで拘束する掌を嫌うようにヤマトが暴れ出した。
拘束から逃れる為か、剥き出しの手や肌に爪を立て必死の抵抗を見せる。
「ヤマト様、大丈夫です!大丈夫ですから!!」
半ば叫ぶように告げながら、ヤマトの身体を落とさないよう抱え直そうとした瞬間。
大きく揺れる枝の前にイルカの身体のバランスが著しく崩れた。
枝から腕が滑り落ち、宙に浮いた上体を支えきれなかった脚が幹を離れる。
イルカがしまったと思った時にはヤマトと共に身体が空中へ投げ出されていた。
次いで生じるのは、落下感。
それらの出来事をまるでスローモーションのように感じながら。
イルカは咄嗟にヤマトの身体を両腕で包み、胸元へ抱く。
ヤマトの爪が、縋りつくようにイルカの纏うウエストコートに立つ。


「―――っ、イルカ!!!」


テンゾウの悲鳴にも似た声を耳にしながら、イルカの身体は強かに地面へ打ち付けられる。
衝撃に呻くことも出来ぬまま、意識はそこでふつりと途切れた。











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