黒猫の輪舞曲【ロンド・オブ・ブラックキャット】




「イルカ」


暗く沈んだ意識の中、名を呼ぶ声があるのをイルカは感じていた。
それは、通りの良い低い声。ずっと聞き入っていたいようにも思う、やわらかで心地の良い響き。


「イルカ」


呼ばれる度、千々に散りたゆたっていた意識が声に向かって収束していく。
イルカを呼んでいるのは誰だろう。
聞き覚えがあるような気もしたが、沈んだ意識下でははっきりと判別するのは難しい。


「イルカ」


その内、イルカの手のひらが何ものかに包み込まれる。
生じるあたたかな温もりは呼ばれる声と相俟ってイルカの心を円く穏やかなものにする。


「イルカ・・・」


しかしながら呼ぶ声が苦しげに歪み、掠れる。
その哀切を帯びた響きに、イルカもつられてもの悲しいような心持ちになる。
そんな風に名を呼ばないで欲しい。聞いているイルカまで切なくなってしまう。
ぼんやりとそう思ったところで、今度は手のひらを包んでいた温もりが離れていく感覚。
・・・嗚呼、厭だ。
イルカは温もりを留めようと開いていた手のひらを握り込もうとする。


「―――イルカ?」


驚きに満ちた声で名を呼ばれ、手のひらが今度は強い力で以て掴まれる。
痛みを感じるものの、イルカは上手く声を発することが出来ない。
仕方なく唯一言うことを聞く手のひらを握り込むようにすれば、力は弥増に強まるばかりだった。


「イルカ!」


与えられる痛みと切迫した声に思わずイルカの眉間には力が入る。
刹那、閉じられた瞼の裏に光を感じた。
暗がりの中に徐々に広がっていく眩いばかりの光に誘われて、イルカはゆっくりと瞼を開く。
最初こそ膜を張ったようにぼんやりと翳んでいた視界も、次第に色や形を明瞭に為していく。
そこで一番にイルカの目に飛び込んできたのはカカシの顔だった。
但し、常に平静を保っている筈の面立ちが今は険しく歪められている。
それは何かに怒っているものとも、心身共に摩耗しきった末に浮かんだものとも取れた。
また元々白い顔の色は今や青白く、目の下には隈が浮いている。
いつもはきちんと撫でつけられている髪も乱れ、服装はシャツに下衣のみという簡単な姿であった。
完璧な執事とは程遠いカカシの姿にイルカは驚きを隠せない。
今迄こうした様を誰かの前で見せることなど一度もなかったのだ。
しかし何よりイルカを動揺させたのは、自らの手のひらがカカシの両手で包み込まれているという事実であった。
ベッドに肘をつき、イルカの手のひらを掴む様はまるで何かに祈りを捧げるようでもある。
「カカシ・・・さん?」
惑う心のまま呼び掛ければ、カカシの端麗な顔は更に歪んだ。
それを目にしてますます動揺に拍車が掛る。イルカの知らぬ間に一体何が起こったというのか。

「―――・・良かった、目が覚めたんだね」

その声と共に視界の中へテンゾウの顔が映り込んでくる。
どこか安堵した風の表情と口ぶりに相手へと目線を移せば、掴まれていた手のひらから力が抜けた。
温もりが離れていくのに気付いた時には立ち上がったカカシが無言のままイルカ達へ背を向けていた。
引き留めたい思いに駆られてはいたが、何と声を掛けるべきか咄嗟には考えもつかない。
辛うじて「あ」と短く上げた声も届かなかったのか、カカシはそのまま振り返ることなく部屋から出ていった。
ゆっくりと閉まる扉をイルカがぼんやりと眺めていたところで。
「イルカ、どこか痛いところはないかい? 違和感もだけど」
声を掛けられて漸く、テンゾウの存在を思い出す。
すぐに全身の感覚を確かめてみるが、特別痛みも違和らしきものも感じない。
「・・・いえ。ないみたい、です」
テンゾウに答えながら、イルカはふと己が寝かされている部屋のことが気に掛かった。
天井や壁、置かれた調度品の全てにおいて記憶に引っ掛かるものがない。
僅かの覚えもない空間に困惑と戸惑いが増していく。
「あの、ここはどこですか」
「ここかい? ここは庭園の作業小屋の中だよ。木から落ちた君を運び込むのに一番近かったものだから」
その言葉を耳にして、イルカの頭の中には目まぐるしく記憶が蘇ってくる。
アカシアの幹に回した腕に感じる木肌の硬さ。
見上げた枝が小刻みに頼りなく撓る様。
伸ばした手に掴んだ毛皮の滑らかな感触。
宙に投げ出された身体に生じる落下感。
胸に抱いたヤマトの温もり。
―――・・そこでイルカははたと思い至る。
「あの、ヤマト様は? ヤマト様は無事ですか!?」
横になっていたベッドから身を起こし、掴み掛かるようにテンゾウへと詰め寄る。
イルカの剣幕に一瞬たじろいだ相手もしかしすぐに表情を緩めてみせた。
「大丈夫、君が庇ってくれたお陰で怪我ひとつないよ」
「本当ですか?」
「ああ」
「良かった・・・」
宥めるように殊更穏やかな声音で話し掛けられ、テンゾウの服を掴んでいたイルカの手から力が抜ける。
深く安堵し、漸く落ち着きを取り戻したイルカに、相手の顔には苦笑いにも似た表情が浮かんだ。
「猫は無事だったけれど、君は大変だったんだよ。あの後、五日も目を覚まさなかったんだから」
「五日も!?」
イルカは思わず驚きの声を上げる。そんなに眠っていた自覚がなかったのだ。
「もうあんな無茶をするのは止してくれよ。あれじゃ、僕の寿命が幾らあっても足りやしない」
どこか冗談めかして告げた後、テンゾウは表情をやわらかく崩す。
それは常の人好きのする、優しい笑みだった。
「でも、本当に目を覚まして良かった。僕はこれからサイ様や屋敷の皆に君のことを伝えてくるよ。サイ様もだけど、皆君を心配していたからね」
「ご心配をお掛けしてすいません・・・」
己が気安く為した行いで、周囲に心配や迷惑を掛けていた。
その事実にイルカはすっかり委縮するような、申し訳ない気分になっていた。
しゅんと項垂れるイルカに、テンゾウからは意外な言葉が掛る。
「それは、僕よりもカカシさんに言ってあげた方が良いかもしれない」
「・・・カカシさんに、ですか?」
「うん。君の意識がないと知った時のカカシさんの取り乱し方はすごかったからね。あんなに動揺した姿は長い付き合いになるけど初めて見た気がする」
テンゾウの言葉を、イルカは俄かには信じがたい思いで聞いていた。
あの一部の隙もない、冷静沈着な男がイルカの為に取り乱す姿など想像もつかなかったのだ。
そんな空気を感じ取ったのか、テンゾウは更に続ける。
「カカシさんはね、君の意識が戻らない間中、時間の許す限り傍に居たんだ。休憩の時や、夜に仕事が終わってから朝までずっとね。多分、暫くまともに寝ていないと思う。僕が休んでくださいと言ってもちっとも聞き入れてくれなかったくらいだし」
どこか呆れたように肩を竦める相手を眺めながら、イルカは戸惑わずにいられない。
主人のことを第一に考え、その為に誠心誠意動くことこそ良しとされる執事。
その執事としての矜持を失してまで傍に付いてくれたカカシは一体何を思っていたのだろう。
それでもイルカの為に酷く取り乱したという話は堪らなく嬉しいものでもある。
「あ、僕がこんなことを言ったというのは内緒だよ? 後で怒られそうだから。でもね、カカシさんはきっと・・・って、まあこれも僕が言うことじゃないか」
最後は独り言ちるように呟くと、テンゾウはそっと目を細めてイルカに微笑みかける。
「じゃあ僕は屋敷に行ってくるよ。後のことはカカシさんにお願いしておくからね」
そう言ったテンゾウの手がぽん、と軽くイルカの頭に置かれる。
そのままくしゃくしゃと撫ぜるように滑らされた手は、どこまでも優しい様子だった。
テンゾウが出て行った後、暫時を置いて静かに扉が開かれる。
室内に入って来たカカシに、先刻イルカに見せた表情の名残はない。そこには常と同様の、何事にも動じない落ち着き払った執事の相貌がある。
しかし服装はやはりシャツと下衣のみで、顔には隠しきれない疲れも滲んでいた。

―――カカシさんはね、君の意識が戻らない間、時間の許す限り傍に居たんだ

ふとテンゾウの言葉が脳裏に蘇ってイルカは己の胸が奇妙に波立つのを感じた。
その間にもカカシは黙したまま、イルカの居るベッドの傍らへと立つ。
深い色の双眸から向けられる視線に、どこか気詰まりなものを覚えながらもイルカはおずおずと口を開く。
「あの・・・ご心配をお掛けしました」
頭を下げたイルカがその顔を上げた時、そこに日頃見慣れた完璧な執事の姿はなかった。
目前で大きく歪んだ相貌に驚きつつも、浮かぶ表情の意味を探るようにイルカは相手を見つめる。
すると肺に溜まった息をそっと吐き出すかのように、カカシの口からは訥々と言葉が零れ落ちる。
「・・・外出から戻ってすぐ、血相を変えたテンゾウからあなたの身に起こったことを告げられました。けれど私は最初、それを信じることが出来ませんでした。・・・信じたくなかった、という方が正しいかもしれません。ただ実際に、あなたがベッドに横になっている姿を目にした時―――私はそのまま心臓が凍りつくように感じました。もし、あなたがオビトと同じようになってしまったら。そう考えると恐ろしくて仕方がなかったのです」
僅かに震える声で告げると、目を伏せてますます苦しげに顔を歪めてみせた。
それは悲愴、とも呼べる表情。
カカシは眠るイルカにオビトの様子を重ねていた。その事実に改めて複雑な心境になるイルカだ。
それでも、カカシにそんな表情をさせるのは堪らない、とも思う。
見ているイルカまで胸苦しくなるような、そんな痛ましい表情を。
「カカシさん」
呼び掛けに、カカシは浮かべた表情を崩さないままイルカへと視線を向けた。
相手の視線がこちらへと向いているのを確かめたイルカは改めて口を開く。
「私は見た目通り、とても頑丈です。今迄だって大きな怪我や病気ひとつしたことがないですし、今回だってこうして目を覚ましました。だから、何があってもカカシさんを悲しませるようなことはありません。誓ってもいい。だって私は」
そこで一旦言葉を切って、イルカは真直ぐカカシに向かい合う。
成行きとはいえ、本心を告げて良いのか未だ迷う心はある。それでもこのまま隠し通すことも最早イルカには難しい。
迷いを断ち切るように、イルカは言葉を口に乗せる。
「私は、あなたのことを誰よりお慕いしていますから」
意を決して告げれば、カカシは両目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。これもイルカの目にしたことのない類のものだ。
但し、その表情は長く続かなかった。
「・・・あなたは本当に」
多分に呆れを含んだ、やわらかな声音。
次いでカカシの顔に浮かんだのは、泣く寸前とも、笑い出す間際とも取れる表情。
「では私はあなたが誓いを破らぬよう、これからずっと確かめていかねばなりませんね」
「それは・・・」
どういう意味なのだろう。
答えを求めるように視線を遣ったイルカに、カカシははっきりと告げる。
「私も、あなたと同じ想いでいます」
瞬間、イルカの頭は全ての思考を停止した。
呼吸の方法までも忘れてしまったかのように息が苦しくて仕方ない。
急激に膨らむ感情を前に胸が詰まり、口を開くものの言葉などひとつも出てこなかった。
告げられた言葉に現実感がなかった。何より、信じられない。そんなことがある筈はないと、否定の感情ばかりが渦を巻く。
「―――正直に告白すれば、私はずっとあなたにオビトの姿を重ねていました。あなたに惹かれるのもその所為であるとばかり思っていた。けれど、あなたが目を覚まさなくなって気付いたのです。あなたに対して抱く感情は決してそれだけのものではないと。私はあなたの中にオビトを見ながら、それでも無意識の内にあなた自身の姿を追い、また強く惹かれていたのです。そうでなければイルカ、あなたの姿を目にするだけで胸に溢れる、この愛おしさに理由が付かない」
カカシの告白に、イルカの身の内からじわりと滲むものがある。
喜び、戸惑い、驚き、嬉しさ。
様々な感情が混じり合い、自然に潤み始めた視界の中、カカシの顔が近付いてくる。
いつしか二人分の体重を受けたベッドが大きく軋んで沈み込む。
至近で見つめ合う内、イルカの鼓動は少しずつ高鳴りを増していく。もしかしたら心音がカカシにも伝わっているかもしれない。しかしそれでも構わない、とも思う。
「イルカ」
優しい声音で名を呼ばれ、カカシの顔が更に近付く。
頬に手を掛けられたイルカがそっと瞼を閉じようとした時。
「おや、お邪魔だったかな?」
主人のサイが、いつの間にか室内に立っていた。
一切悪びれた風もない顔に浮かぶ笑みはどこか意地の悪いものだ。
そしてサイの後ろには申し訳なさそうに身体を縮こめたテンゾウが控えている。
二人の姿を認めてイルカは急激に顔の熱が上がるのを感じた。
扉が開いたことはおろか、二人が部屋を訪れていたことにすら気付けなかったのだ。
「イルカが目を覚ましたと聞いて来てみれば、取り込み中だったとは。これは失礼」
サイの言葉にイルカは一層顔の熱が上がる思いがし、一方のカカシは極まりも悪そうに眉を顰めている。
そんな執事と執事補佐の顔を交互に見て、主人はふと可笑しそうに表情を緩めてみせる。
「まあ、そんな顔をするな。・・・テンゾウ」
「はい?」
「これから私に付き合え。外に出る」
「外、ですか」
「そう。お前は主人を一人で外出させるつもりなのか」
「・・・サイ様、お出掛けになられるのですか」
サイとテンゾウの遣り取りに口を挟むように、常の相貌を取り戻したカカシが訊ねる。
するとサイはにこりと、美しいながらも腹に何かを抱える笑みを浮かべてみせた。
それは、周囲から変人≠ニ評される、一筋縄ではいかない主人の顔。
「ああ、戻るのは明日の夜だ。屋敷の人間には伝えておく。但し先に言っておくが、お前達は私の邪魔をしないように。・・・後は好きにすればいい」
主人の言葉に、カカシとイルカは揃って呆気に取られたようにサイを見つめる。
執事と執事補佐が仕える主人の傍を外されるということは、暇を与えられたと同義。
つまり、実質の休日を意味するのだ。
その事実に二人が顔を見合わせたところで、サイが改めて口を開く。
「人生の春は短いというし、馬に蹴られる前に私達は早々に退散するとしよう。ねえ、テンゾウ」
「はい、お供させていただきますサイ様」
返答に満足そうに目を細めたサイは扉から離れたが、テンゾウは室内に居るイルカへと視線を向けた。
イルカと目が合うと、その顔に優しい微笑みが浮かぶ。それはイルカ達を祝福している様子でもあった。
「テンゾウ」
「あ、はい只今!」
サイの呼ぶ声に答えたテンゾウは慌ただしくイルカ達に背を向ける。
開け放たれていた扉が閉まり、二人分の足音が遠退いていく。
その音が完全に聞こえなくなった後、カカシの口から溜息が洩れた。
「どうやら、またひとつ弱みを握られてしまったようです」
小さく言ちったものの、言葉ほどその顔は嫌がっている様子ではなかった。どこか諦めにも似た、清々とした顔付きでもある。
「他にもあるのですか」
「ええ、幾つも。恥ずかしい姿や、情けない様子も沢山知られています。長い付き合いですから」
「・・・私にも、いつか教えてくださいますか」
優秀な執事としてずっとカカシに対する憧れはあった。
けれど執事職という衣を脱いだ、一人の人間としてのカカシの姿を未だイルカは深く知らない。
だからこそカカシに纏わることならば皆知りたいと思ってしまう。
それが、どれだけ恥ずかしく情けないものであったとしても、だ。
イルカの言葉にカカシは僅かに眉を持ち上げた後、顔に秀麗な笑みを浮かべた。思わず見惚れるイルカの耳元でカカシは囁く。
「イルカが望むのなら」
カカシの言葉にイルカは顔だけでなく耳朶までも紅く染め変えたが、口元は綻び、頬は緩むばかりだった。
そんなイルカに向けてカカシは尚も囁きかける。
「それに私も、知りたいことがあるのです」
「何でしょう」
「あなたの唇の熱を」
そう告げたカカシの双眸に明らかな情欲の炎が灯っているのを、イルカは見逃さなかった。
熟れ続ける顔の熱を持て余しながらも、イルカは迷いなく答える。
「よろこんで」
言葉の後、カカシの顔が近付き、唇が重なる。
触れ合った部分から生じる熱にイルカが陶然としたものを覚えていると、ゆっくり唇が離された。
但し間近にある、イルカを見つめる双眸に揺らめく炎は未だ失せていない。
それに、は、と零した自らの吐息の熱さにイルカは背筋を震わせる。消えも失せもしない熱を感じているのは互いに同じのようだった。
どちらからともなく再び合わさった唇の、僅かの隙間から入り込んだカカシの舌が歯列を割り、口蓋を弄る。
唾液を混ぜるようにやわらかな舌同士が絡みあう口吻けは、イルカの頭の芯を痺れさせて思考をも溶かす。
食み合う唇の間から溢れる互いの呼気が室内に漂う空気の密度を上げていく。
口吻けだけで己がどうにかなってしまう気がして、イルカは縋るようにカカシの背へと手を回す。それにカカシから、ふと笑うような気配が漏れた。
「イルカ・・・」
僅かに離された唇から零れる、掠れた甘い声。
誘うような、強請るような響きを持つそれに、イルカは僅かに開いた瞼を再びそっと閉じる。
そうして、イルカはカカシに抱かれた。
本来受け入れる形にはなっていない身体を押し開かれる痛みと、未知の行為に対する恐れに身を固くするイルカに、カカシは辛抱強く、慎重で丁寧な愛撫を施した。
もの慣れないイルカにとって与えられる刺激が皆善いものとはいえなかったが、一方でそれらを以てしても余りあるほどの喜びを覚えていた。
普段、冷静沈着な態を崩さない相手が、額に玉の汗を浮かべ、息を乱しながら熱情的にイルカを求める。
睦言めいた言葉こそなかったが、イルカに触れる手指、吐息の熱、呼ばれる名や向けられた眼差しの全てで、カカシはイルカに愛おしいと告げていた。
身体も心も只々深く満ちて、強い幸福感に包まれる。
イルカは全身で確かにカカシの愛を感じ、受け入れられる喜びに自然と涙が溢れた。
事が終わった後も離れ難く、互いの身体を抱き合う格好のままベッドの中に収まった。
直後は早鐘を打っていた互いの心臓も、時を経るにつれ少しずつ落ち着いてひとつに重なりあうように脈打ち始める。
たったそれだけのことでもイルカには堪らなく嬉しいことのように思えた。
ふと笑みを漏らしたイルカに、カカシもまた表情を緩めてみせる。そして額に、鼻先に、頬にと戯れのような口吻けが落ちてきた。
擽ったさに肩を竦めながらも、イルカは厭うことなく口吻を受け入れる。
満ち足りた時間の甘い名残を留める行為が思いの外心地良く、イルカはますますカカシから離れ難くなる。
いつまでそうしてくっついていただろうか。
ある時、閉じられた部屋の扉の外からカリカリと引っ掻くような音と共に、猫のものと思われる鳴き声が聞こえてきた。
それに、イルカとカカシは顔を見合わせる。
しかしイルカが咄嗟にベッドから起き上がろうとしたところで、下肢に力が入らないことに気付いた。
次いで腰やあらぬ部分に生じる、鈍い痛みの存在にも。
「・・・ったぁ」
小さく呻いて再びベッドに沈み込むイルカの肩に、先に起き上がったカカシが軽く手を添えた。
「私が行きましょう」
すっかり常の余裕を取り戻した相手に対してイルカは恥じ入るような心持ちになる。
またも頬を染めて「おねがいします」と小声で告げれば、応えるように相手の顔にはやわらかな笑みが浮かんだ。
ベッドを離れ、カカシが扉へと近付く。
カカシの手によりゆっくりと開かれた扉の奥にはヤマトが行儀よく前足を揃えて座っていた。
扉を開けた相手に『御苦労』とでも言わんばかりの澄ました顔を向けた後、悠然たる歩みでベッドまでやって来る。
すると軽やかな仕草で以て上へと飛び上がり、未だ布団に包まったままのイルカの傍に寄った。澄んだ硝子玉にも似た瞳が真直ぐに向く。
怪我ひとつなく、どこも変わりのなさそうなヤマトの姿にイルカは安堵する。テンゾウの言ったことはどうやら本当だったらしい。
そっと伸ばした手に、ヤマトは自らぐりぐりと頭を擦りつけてくる。その後でぐるぐると喉まで鳴らす姿を目にすればイルカとて驚かずにはいられない。
普段ならサイとテンゾウ以外の人間にヤマトが自ら身体を擦り寄せるなどということはしない。またイルカから触れたとしても何ら反応を示さないというのに。
もしかするとこれがヤマトなりの礼ということだろうか。
そう考えたイルカは自然と頬が緩むのを感じた。猫でありながらもヤマトは案外義理堅い性質であるらしい。
そのまま頭を撫でていれば、戻ってきたカカシもベッドに腰掛けてヤマトへ手を伸ばす。
二人分の手を受けて更に機嫌良く喉を鳴らし始める黒猫を眺めながら、カカシが思い出したと言わんばかりに口を開く。
「そういえばこの猫の名がどこから来たか、イルカあなたは知っていますか」
問われて、イルカは首を捻る。
ヤマトの名の由来など、飼い主であるサイから一度も聞かされたことはなかったのだ。
「いいえ知りません」
素直に答えたイルカは、その後に続いた答えに目を丸くすることとなる。
「ヤマト、というのは、実はテンゾウの幼い頃の綽名だったのです。どこからこの名が付いたかは知りませんが、昔は私やサイ様もテンゾウを『ヤマト』と呼んでいたものでしたよ」
「そうなんですか」
意外な由来に、イルカは驚く。
しかしそこではたと思い至る。
サイはいつもヤマトを殊更可愛がっていた。それをイルカは今迄単純に猫が好きであるからだと思い込んでいたのだが、本当はもしかすると・・・。
「ねえ、わかり易いでしょう」
どこか可笑しそうにカカシから告げられるのに、イルカは「はぁ」と曖昧に言葉を濁す。
名の由来とその可愛がり方を目にすれば、サイのテンゾウに対する深い情や執着が容易く見えてくるようでもあったのだ。
勿論、それが一方通行でないのをイルカも良く知るのではあるが。
もしかするとヤマトがテンゾウに懐いているのは何か通じ合うものがあってのことだろうか。
そう、イルカが明後日のことを考えているところで。
「でも、これは秘密ですよ?」
唇に指を当て、どこか悪戯っぽく告げるカカシにイルカは目を瞬かせる。
カカシが斯様な仕草を見せるのは初めてのことだったのだ。
それでもイルカにはこうした顔を見せるカカシもまた、魅力的に映る。
執事職を纏った姿だけでなく、脱いで素を晒した顔ももっと知れたらいい。
そんなことを考えながら、イルカも顔に共犯者の笑みを浮かべて「秘密です」と潜めた声で告げた。











-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system