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そうして続いてゆく日々の

      





先生達の住む家は、子供の僕の目から見ても少し変っているように思えるところでした。
住宅街の真ん中にあるその家の近くには他にも沢山の家が立ち並んでいます。けれどそこを訪れる度に、僕は何故か森の中にある古びた一軒家に迷い込んだように錯覚してしまうのです。
木造で平屋建ての家の周囲には建物を取り囲むように木が植えられています。
背の高いもの、低いもの。実を付けるもの、つけないもの。
もうもうと葉を茂らすもの、ほんの少し、申し訳程度に葉を付けるもの。
つるつると細く伸びた枝、ごつごつと厳つくどっしりした根を張る幹。
僕には名前のわからない木も沢山ありました。
家主の意向か、おおよそ手入れというものがされていないそれらの木々は鬱蒼と好き勝手に、自由気儘な様子で伸び広がっています。どの木もそれぞれに個性的です。
また木々は四季折々に花を付け、美しい姿を見せてもくれます。今はサツキの白い花が緑の中にあって一層鮮やかに咲き誇っています。
玄関傍にあるそれを横目で見ながら、僕は引き戸に手を掛けました。
がらがらと賑やかな音を立てて開かれた先に足を踏み入れると、中は薄暗く、空気は屋外よりひんやりしているように感じられました。
室内は静まり返り、物音ひとつ耳に聞こえてきません。
玄関に置かれた一輪差しの花器には菖蒲の花が差され、独特の濃い香でいっぱいに満ちています。
その所為でしょうか。ぴったりと戸を閉めた後、外界から完全に遮断され、ひとりぼっちで取り残されたような心持ちになってしまったのは。
少しばかり心細い思いで、僕は肩に斜めに掛っていた鞄の肩紐をぎゅっと握り締めると暗がりに向かって呼び掛けます。


「こんにちは!」


すると間を置かずに、声が返ってきます。


「おー、上がれよ」


それに安堵して、僕はすぐに靴を脱いで家に上がり込みました。
裸足で歩く木の廊下の、冷たい感触が足の裏に心地よく感じられます。
遠慮なくぺたぺたと足の音を響かせながら薄暗い廊下を突当たりまで進むと、そこに襖が見えてきます。
襖を開いた先、部屋の中は光に溢れていました。
部屋の奥は庭に面して一面ガラス戸になっていて、外からの光がたっぷり入るのです。薄暗い中を歩いてきた目にはとても眩しく感じられて、僕は思わず目を眇めていました。開け放たれたガラス戸からは新鮮な緑の匂いを孕んだ風が入ってきています。とても心地のよい風です。
部屋の中央には木製の卓袱台があり、そこから少し離れた位置に安楽椅子が置かれています。
木のフレームに、背中の形に沿うよう微妙な曲線を描く籐編みが組み合わさった椅子は繊細な造りになっています。飴色に輝く籐とつやつやと滑らかな木の光沢が、経た年月を何より雄弁に物語っているようです。
安楽椅子に深く凭れ掛り、庭へと顔を向けているその人は薄青い色味の紬を纏っていました。肩の辺りには白いものの混じる黒髪が低い位置でひとつに結われて流れています。
僕は椅子に近付くと、相手に向かって正面から声を掛けました。
「こんにちは、先生」
声に気付いたらしい先生は、「良く来たな」と言って庭から僕の方へ顔を向けました。そしていくつもの皺が刻まれた顔をくしゃくしゃにして人好きのする笑みを載せます。
誰もが好きにならずにはいられない、勿論僕も大好きな先生の笑顔。
けれど、先生の目は僕を見てはいません。
・・・先生は目が見えないのです。
先生は、生まれつき目が見えなかったのではないと聞いています。
若い頃に目の病を患い、僕が生まれた頃にはもう見えなくなっていたそうです。先生は随分長い間、見えないまま過ごしているようでした。でも僕にはそれが当たり前の先生の姿なのです。
先生と僕は、僕が赤ん坊の頃からの付き合いです。
僕の父と母が元々先生の生徒で忍術アカデミーを卒業してからもずっと縁が続いているのだといいます。僕が目の前の人を『先生』と呼ぶのも父や母からの受け売りなのです。
「先生、足の具合はどう?」
僕が何気なく訊ねますと、先生は肘掛に置いていた手を持ち上げ、鼻の上に走る傷をしきりに指で擦り始めました。
これは先生が困った時や照れ臭い時によくする仕草でもありました。
「いやあ、もう殆ど痛くないんだ。動かそうと思えば動かせるくらいだし。でも治るまであんまり動いちゃいけないんだと。身体は元気だから暇で仕方なくてな。大体あの人もお前の父さんも大袈裟に騒ぎ過ぎなんだ」
「でも、ちょっとでも痛いなら動いちゃ駄目だよ」
ぼやく先生にきっぱりと告げれば、先生は顔に水でも掛けられたみたいにぽかんと呆けた顔をしました。
その後でしみじみと言います。
「・・・お前もあの二人にそっくりだ」
あの二人とは、僕の父と、僕の父と母のもう一人の先生です。
僕の父はアカデミー生の頃、先生に大変お世話になったらしいのです。
その所為か目の見えない先生のことをいつも気に掛けていて、何かあるとすぐに先生の許へ駆け付けるのです。
そしてもう一人の先生は、先生の結婚相手です。
但し、先生ももう一人の先生も同じ性別―――男の人でありました。
しかしながら木の葉の里では異性間だけでなく同性間での婚姻も認められています。なので二人の関係も公に認められているのでした。
そんな僕の父ともう一人の先生は、先生に関することになると大層過保護であり心配症にもなりました。
元々の性格的なものもあるのでしょうが、何より先生が行き先を誰にも告げすに気安く出掛けることにも原因がありそうでした。
今回のことだってそう。
先生は先日、出先で誤って床の段差を踏み外し、足を捻ってしまったのです。
動けなくなった先生はそのまま病院に運ばれて、病院から連絡を受けた僕の父ともう一人の先生はそれぞれ血相を変えて飛び出していったと聞いています。そして先生は、病院に迎えに来た二人から長い時間を掛けてこってりと油を絞られたのだそうです。
でもこれは所詮自業自得というものなのでは、なんて僕は思ってしまうのですが。
でもそんな先生だからこそ、もう一人の先生も、僕の父も、勿論僕だって放っておけないと思うのかもしれません。
そんな僕は、二人から動けない先生の世話を任されていました。
僕の父や母、もう一人の先生も忍なので、ずっと先生の傍に付いていることが叶わないのです。だから近頃の僕はアカデミーが終わるとすぐに先生の家を訪れるようにしていました。
肩に掛けたままだった鞄を畳の上におろしながら、先生に訊ねます。
「今日は先生ひとりなの?」
「いいや。あの人は今、ちょっと出掛けてるんだ。多分もうすぐ戻ってくるんじゃないか。雨が降るまでに帰って来られるといいけど」
「雨?」
僕は思わず訝った声を上げていました。先程まで外を歩いていましたが空は晴れていたのです。雨が降る様子なんて少しもないようなのに、と思ったその時です。
ぽつ、ぽつ、と庭の木の葉を打つ音が聞こえてきたかと思うと、続いてざーっと勢いよく雨が降り出しました。
驚いて、落ちてくる大粒の雨を呆けたように眺める僕に「お前、丁度良い時に来たなぁ」と先生はのんびり言いました。
先生には、時折こういうことがあるのです。
何も見えていない筈なのに、見えている人以上に見えている、ということが。
その度に僕は今よりもっと小さい頃に好きだった絵本を思い出しました。本に出てくる魔法使いの姿を先生に重ねてしまうのです。
僕が呆けている間に、叩きつけるように降る雨が開いたガラス戸から室内に入ってきていました。慌ててガラス戸を閉めても、雨に濡れて強く香る緑の匂いと湿った空気が残っているのを感じます。
そんな中、僕の背中に向かって先生はつまらなそうに零しました。
「しかしこう降ってちゃあ、どこにも出掛けられないなぁ」
どうやら先生は懲りずにどこかに出掛ける気だったようです。
そういえば以前、「里はオレの庭みたいなものだから見えなくたってどこにでも行ける」なんて呵々と笑っていましたっけ。
僕も昔、先生に連れられて甘栗甘まで一緒に行ったことがあります。
この家から甘栗甘のある通りまでは少し離れていて、幼い僕にとって初めての大冒険だったのをよく覚えています。
見知らぬ道、見慣れぬ建物、そして行き過ぎる沢山の人々。
皆、僕より大きな身体ばかりです。
その中を先生は慣れた様子で、白い杖を付きながらまるで見えているみたいにすいすい歩いていくのです。
でも僕は途中ですっかり怖気づいてしまって、いつしか先生の紬の袖に縋りついていました。そんな僕に気付いた先生は「大丈夫、大丈夫」とやさしい声で宥めます。それでも頑なに袖を離さないでいると、頭に大きな手のひらが置かれました。
僕が顔を上げた時、先生の顔にはいつもの人好きのする笑みが浮かんでいました。どんな言葉よりはっきり大丈夫だと伝えてくる表情を目にして、漸く袖から手を離すことが出来たのです。その後で先生は僕と手を繋いでくれました。
節ばった先生の手のひらは温かく乾いていて、僕の手のひらをすっぽりと包むくらいに大きなものでした。それでも僕は離さないよう、強く強く手のひらを握り返していたのです。
その時甘栗甘に行って何を食べたか、なんて記憶はもう残っていないけれど、もうひとつだけしっかりと覚えていることがあります。
先生と一緒に甘栗甘を出た時、もう一人の先生が僕達を迎えにやって来たのです。
もう一人の先生は僕達二人を見るとほっとしたように目を細め、腕を伸ばして僕の身体を抱え上げました。もう一人の先生は線が細くて力なんてあまりありそうにないのに、何の苦もない様子でした。
そうしてもう一人の先生は片方の腕に僕を、空いた片方で先生の腕を取って道を歩き出しました。
大冒険で余程疲れていたのでしょう、僕はすぐにもうひとりの先生の腕の中でうとうとし出しました。それでももう一人の先生がしきりに何かしらの小言を零しているのも、一方の先生が「はいはい、すいませんねぇ」と謝っているのだか憎まれ口を叩いているのだかわからない調子を繰り返しているのも耳に届いていました。
そして。


「―――・・心配しなくても、本当にアンタから離れるなんてこと、しやしませんよ」


わかっているでしょう、なんて今にもくすくすと笑い出しそうな、甘く緩んだ先生の声を最後に僕は完全に寝入ってしまったのでした。
不思議なことに、僕の中でその声の調子は何年経っても昨日のことのように鮮やかに思い出せるのです。
僕が記憶の中で遊んでいると、背後からいつもの先生の声が掛かります。
「・・・さーて、出掛けられないなら何をしようか?」
「あ、僕宿題があるんだ」
「宿題か。何が出たんだ?」
「えーとね、楽しかったことを絵にするんだって。どこかに出掛けたのでも、家でのんびりしてたのでもいいから、楽しいと思ったことを絵にしなさい、だって」
「そうかそうか。なら、さっさとやっちまえ」
「うん」
僕は畳に置いた鞄の中から丸めた画用紙とクレヨンを取り出して傍の卓袱台に広げました。どこまでも真っ白な画用紙を眺めつつ、何を描こうかと考えます。
楽しかったこと、楽しかったこと・・・。
呪文のように頭の中で繰り返しているところで、ある光景が頭に浮かびました。
僕はすぐに肌色のクレヨンを手に取ります。画用紙の真ん中にお椀形よりももう少し縦に長い形を描いて、それをきれいに塗り潰しました。
次に黒色のクレヨンでにこにこ笑っている目と少し丸みを帯びた鼻、大きく横に撓んで持ち上がる口と、勿論鼻に付いた傷も忘れずに描き込んでいきます。
最後にひとつに括られた髪を描いたら、先生の顔が完成です。その横に僕の顔を描き込んで先生と僕が手を繋いでいる絵にしました。
でも、これだけではなんだかさみしいようです。
僕はまた考えて、画用紙の空いているスペースにいろんな人を描き足しました。父と母は僕の隣に、家で飼っている犬のシロは足元に、そして忘れてはいけないもう一人の先生は先生の横に描きました。
先生を中心にして描かれた絵は、皆の顔が自然と笑っている様子になりました。僕の目から見てもとても楽しそうな絵に仕上がっています。
先生の傍に居ると、不思議と皆にこにこと笑った顔になるのです。それはまるで先生の魔法にでもかけられたみたいだと僕は思うのです。
先生に絵が出来たことを知らせようと安楽椅子を振り返って、僕はあっと思います。
椅子に深く凭れて瞼を閉じた先生からは、繰り返し穏やかな息遣いが聞こえていました。いつの間にか眠ってしまったようです。
起こしてしまうのが勿体ないくらい気持ち良さそうに眠っていましたから、僕は先生をそのまま寝かせてあげることにしました。
部屋の中にある襖にそろそろと近付き、音を立てないよう慎重に引き開けて中から薄い毛布を取り出します。僕が寝入ってしまうと、先生はいつもここから毛布を出して身体に掛けてくれると知っていたのです。
僕も、いつもしてもらうみたいに毛布を掛けてあげようとしました。
けれど、僕の背では先生の肩まで手が届きません。どれだけいっぱいに腕を伸ばしたって、一生懸命背伸びをしたって、少しも届かないのです。さて、どうしましょう。
うんと頭を悩ませているところで、玄関の引き戸が開く音に続いて「ただいま」と馴染みのある声が聞こえてきました。
僕は先生を起こさないよう、アカデミーで習った抜き足で以て玄関へと急ぎます。
玄関先には予想通り、もう一人の先生が立っていました。
ひょろりと縦に長い体躯と生まれつきだという白髪みたいな髪。そして先生曰く「若い頃はそりゃあ格好良くて女の人にすこぶる人気があった」顔―――そう言う時、先生はいつも少しだけ得意そうな顔つきになるのです―――のもう一人の先生は僕の顔を見て静かに微笑みました。笑うと口元と目許に出来る皺が、その表情と雰囲気とをますます和やかに見せるようです。
外ではいつも着けているという額当てと口布はそこにありません。
というのも昔、まだ赤ん坊だった僕は額当てと口布とを着けたもう一人の先生の顔を見る度に火がついたように泣き出していたらしいのです。
勿論僕はそんなことをちっとも覚えていないのですが、それ以来もう一人の先生は僕の前では必ずそれらを外すようになったのだと聞いています。
「あの人、お前に大泣きされたのが余程ショックだったみたいだぞ。お前にもあの狼狽えた様子を見せてやりたかったなぁ」
なんて、先生はさも可笑しそうに、また意地の悪い顔で言っていたものでしたが。
そんなもう一人の先生に、僕は「おかえり」と潜めた声で告げた後「先生寝てるんだ」と続けました。
するともう一人の先生は、心得たとでもいうように静かに頷きます。
脚絆を緩め、靴を脱いで部屋に上がった先生の後を僕も付いて歩きます。もう一人の先生の抜き足は普通に廊下を歩いているだけのようなのに、僅かも足音が感じられません。まるで床に足がついていないかのような、けれど実際にはしっかりと床に付いている足元を目にして、僕はいつも自分の未熟さを思うのです。
もう一人の先生は凄い忍、なのだそうです。
アカデミー生の僕が知っている限りでも、僕より小さな頃に中忍になって暗部に在籍していたこともあり、その上他里の手配書にも載るほどの実力を持っている、など吃驚する話ばかりです。
先生の名前は大人の忍なら誰でも知っているようでした。
けれどこの家に居る時のもう一人の先生は、そんな風にはちっとも見えません。目の見えない先生をいつも心配していて、小言を言いながらも誰より先生を大事にしているやさしい人、なのです。
廊下の突当たりの部屋に来たもう一人の先生は、静かに襖を開くと再び完璧な抜き足で以て安楽椅子に近寄りました。
椅子の前に立ったところで腰を曲げ、先生の顔を覗き込むようにしながら「ただいま」と囁くような声で告げます。そうしてから僕が掛けようとして膝の上に蟠ったままになっていた毛布を手に取り、そっと肩まで持ち上げました。その様子はまるで、大事な宝物にでも触れるような慎重で丁寧な手付きでもありました。
もう一人の先生の顔に浮かぶ表情は木々の間から地面に零れ落ちる春の陽射しみたいにやわらかで、またとてもきれいなものでもあったのです。
不意に僕は胸がきゅうっと内側に縮こまるような、不可思議な感覚に襲われました。それに心臓も驚いたのでしょう、勝手にどきどきと煩く鳴りはじめています。
僕が胸に手を当てて茫っと二人を見つめている間に、もう一人の先生は僕のところへ戻ってきました。そして襖の前に所在なく佇む僕に向かって短く訊ねます。
「ココア飲む?」
こくんと頷くと、もう一人の先生は僕の手に目を落として言いました。
「じゃあ、手を洗ってから台所に来なさいね。それとうがいも忘れずに」
すぐに手元を見遣れば、手の其処此処にクレヨンが付いていました。
先程の宿題の時に付いたに違いありません。
僕は再び頷いて手を洗いに洗面所へと向かいます。
この家を訪れる度、こうしてもう一人の先生にココアを淹れて貰うのが習慣になっていました。
先生の淹れるココアは、いつもとびきり美味しいのです。
家で母に強請って淹れて貰うものや、自動販売機で売っているものとは全く別物と言いたくなるほど違うのです。もう一人の先生にそう告げると、先生は少し考えるような素振りを見せた後でこう言いました。
「オレの淹れるココアの中に、この家の空気が溶けている所為かもね」
もしそうなら、美味しい筈です。この家にはいつも緑の匂いと古い建物が持つ静かな佇まい、そして二人の先生の穏やかでやさしい気配が混ざり合って其処彼処いっぱいに満ちているのですから。
そんなことを思いながら僕は洗面所にあった石鹸をたっぷりと泡立てます。
クレヨンがきれいに落ちるまで念入りに手を擦って、勢い良く捻った蛇口から流れ出る水で一気に流します。勿論、忘れずにうがいもしてから台所へ向かいました。
台所では丁度、小さなミルクパンからマグカップにココアが移し替えられている最中でした。温かな湯気が立つマグカップからはミルクの甘い匂いが漂っています。
思わず鼻で大きく息を吸った僕を見て、もう一人の先生は口元に笑みを浮かべました。
「どうぞ」
「ありがとう」
僕は手渡されたマグカップに、すぐに口を付けました。けれど出来たてのココアはやっぱりとても熱いのです。思わず「あちっ」と零すと、先生は小さく笑いながら言いました。
「慌てなくても、ココアは逃げないから」
僕はすっかり恥ずかしくなってしまって、耳が熱くなるのを感じながら今度はきちんと息を吹きかけて中身を冷ましにかかりました。
そんな僕に、使い終わったミルクパンを流しに置いていたもう一人の先生が訊ねます。
「そういえば今日、あの人大人しくしてた?」
「・・・うん、どうにか」
確かに家の中には居ましたが、もし雨が降らなかったらどこかに出掛けていたかもしれません。
僕の答えを聞いた先生は盛大に顔を顰めてみせました。
「本当にあの人は・・・」
「でも、放っておけないでしょう?」
僕の質問にもう一人の先生は少し驚いた顔つきになりました。
けれどその後で、今度はゆっくりと表情を緩めます。
「そうだね、あの人は放っておけないねぇ」
僕の目を、笑うようにそっと細められた目が見つめています。
こういう時、僕は先生ととても近しいように思うのです。



「――――い、おーい、どこだー?」



遠くから先生の声が聞こえてきました。目を覚ましたのでしょうか。
先生は、どうやら僕のことを探しているみたいです。
「今からお茶を淹れるから、あの人にそう言っておいてくれる?」
「うん、わかった」
僕ともう一人の先生は顔を見合わせて、まるで何もかも通じ合った親しい友達同士がするようにこっそりと微笑み合いました。
僕は飲みかけのココアを流しの傍に置くと、すぐに廊下の突き当たりの部屋を目指して駆け出します。
ぺたぺたと遠慮なく足音を響かせて、僕を探しているだろう先生の元へと急ぎました。
「おーい、どこに居るんだー?」
先生の大きな声に負けないように、走る僕も大きな声で応えます。
「はぁーい、今行くよっ!」








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