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続いてゆく日々のために




目に違和感があった。
ふと気付くと、目の前にあるものが霞んで視界がぼやけている。
最初は疲れからくる一時的なものだと思っていた。
けれどそれは時を経るにつれ、頻繁に起こるようになっていた。
その症状に思い当たる節もあったので、オレは父の代から世話になっている眼科医の元へ赴くことにした。




良く言えばレトロ、正確に言えばボロい木造のこじんまりとした病院は、過去の記憶と寸分違わぬ姿でそこに在る。
開ける際にぎいっと鈍く軋むガラス扉や、屋外に比べて薄暗く感じる院内に漂う薬っぽい匂いのする空気も変わらない。
変わらないといえば、ここの医師だってそうだ。
オレのことを赤ん坊の頃から知っているという医師は、いつも難しそうな顔をしたジイさんだった。顔色は常に青白く、ひょろりと縦に長いその容姿からオレは密かに『モヤシジジイ』と呼んでいた。
やはり今見てもモヤシジジイ・・・もとい先生には変わった様子がない。
白いワイシャツにネクタイを締めた上からドクターコートを羽織り、黒いパンツと合わせているのも、顔にある皺の様子も白髪の後退具合も眼鏡の形も何ひとつ。
なのでつい、もしかしてこの人実はロボットなんじゃないか?と突拍子もないことまで考えてしまったほど。
ただ、昔は診察を受けていたのは父で、オレはその付添というかなかなか里に居ない父と一緒に居たいが為に病院にまで付いて来ていたくっつき虫だった。でも今は、診察を受けているのはオレで、そしてオレはひとりきりだ。
先生から問診と検診とを一通り受けた後、オレは暫く待合室で待つことになった。
待合室に置かれた、本や雑誌の差し込まれた木製のラックも、長年の使用で色褪せ草臥れた感のある長椅子もひとつとして変わっていない。
長椅子に腰かけてぼんやりと室内の記憶を確かめているところで、オレは再び診察室へと呼ばれた。
診察室に入れば、相も変わらず難しい顔をした先生が細々した字で埋まったカルテに目を遣りながらぼそぼそと言う。

「うみのさん、残念ですが」

その言葉に、ああ、やっぱりなと小さく息が漏れた。
今度は、オレの番か。




五月一日

「――――・・はいぃ!?」
そう素っ頓狂な声を上げた彼は、ふたりきりということで無防備に晒していた両目をこれでもか、とばかりに見開いて固まってしまった。
その時は丁度、オレのアパートで晩御飯を食べている最中だった。
今日の天気や晩御飯に出した秋刀魚が魚屋で安かった、みたいな他愛の無い話の合間に紛れ込ませたつもりの話題で、この反応だ。
その間ずっと秋刀魚の皿に傾けられていた醤油差しからは、だばだばと無遠慮に醤油が注がれていた。今やそれは、大根おろしのみならず秋刀魚全体が醤油に浸かってしまうくらいの量になっていた。
「あー・・・秋刀魚、塩辛くなりますよ?」
親切に教えてあげると、彼は「うわっ!」と漸く気付いたみたいに言い、すぐに醤油差しの角度を改めた。そして卓袱台の上に妙に慎重且つ丁寧な仕草で置いてみてから、恐る恐るといった体で訊ねてくる。
「・・・冗談、ですよね?」
それに、ちっとも冗談ではないんですと正直に返せば「ウソだろ」と呟いた彼はしかし、次の瞬間にはぎっと目を吊り上げてオレを睨み据えてきた。うーん、これはマズイパターンかもしれない。
「ちょっとアンタ、なんでそんな何でもないことみたいな言い方してんですか!?いいですか、失明するってことは、目が見えなくなっちゃうってことですよ!こんな大事な話をどうしてそんなのほほんと、しかも御飯時に、でもって口の中にものが入った状態で言うんですか!!」
一気に捲し立てるように言って、彼の手が力強く卓袱台を叩く。
その拍子にみそ汁やら秋刀魚の皿になみなみと注がれた醤油やらが零れたのだけれど、きつくこちらを睨み据える彼の目には映っていなかったようだ。
それらを勿体ないと思いながら、彼の怒りがどうも御飯時というところにあるようなので、では一体いつだったら良かったのだろうと改めて考えてみる。
寝る前に言ったら神経質なこの人がそのまま眠れなくなりそうだし、朝出掛ける前だったら話をしている間に遅刻するかもしれないし、受付所で、といっても仕事中だし人の目もあるしな。

「ちょっとアンタ、聞いてますか!」

卓袱台に手を付いたまま、彼がずいっと身を乗り出してくる。
目を吊り上げ、頬を桜色―――元々の肌色が白いので完全に真っ赤にはならないらしい―――にして怒っている顔を間近に見れば、妙に間が抜けていて、大層面白くもあって。オレは彼の目前でつい、不可抗力的に噴き出してしまった。
勿論、現状においてこの行為は火に油というヤツだった訳で。
「―――っ、笑い事じゃないでしょっ!!!」
思いきり雷が落ちてくる。
まあ、彼が怒る気持ちもちょっとは理解出来るのだけれど。



先生の診断によると、オレはもうすぐ失明するらしい。
普通ならその話を聞いて驚愕に打ち震えたり、慟哭したりするものなのだろうが、オレがこんなに平然としていられるのには理由がある。
というのも、何故かうみのの血を引く男は皆、決まって失明する運命にあるからだ。ある日突然、原因も不明のままに。
オレの父も、オレの祖父も、そのまた先の人も例外なく失明しているそうで、先生によれば遺伝的なものではないかという話だった。
まあつまりは、失明する覚悟が前々から出来ているので取り乱したりしないだけなのだ。だから彼のように過剰反応されると、オレの方が困ってしまう。今だって、拗ねたようにこう言われる始末。
「ねえ、どうして今まで目のことを言わなかったんですか?目の違和感の話だってさっき初めて聞いたし。・・・オレはそんなにアンタにとってどうでもいい存在なんですか」
こんなことを言い出したが最後、機嫌が直るまでに物凄く時間が掛かるのを知っている。彼は案外しつこい性質なのだ。
それが予想出来たから適当な話題に混ぜて誤魔化そうとしたのに。
やれやれと思いながらも、放っておく訳にもいかないのでオレは言葉を選んで彼と向かい合った。
「だって言ったら絶対、アンタは気にしてしまうでしょう?心配を掛けたくなかったんです」
尤もらしいことを至極尤もらしい口調で告げれば、彼は難しい顔をしたまま暫く押し黙った。その後、いやに真面目くさった様子で訊ねてくる。
「・・・どのくらいで見えなくなるんですか?」
「さあ?」
「さあ?って、いい加減な!」
再び声を荒げられたけれど、でも本当にわからないのだから仕方ない。
父はオレが赤ん坊の頃に目に違和感を覚えてからも九尾の件で亡くなるまで辛うじて見えていたらしいが、祖父は目に違和感があってから三日後には完全に失明したと聞いている。
「まあ、その内見えなくなるんじゃないですかねぇ」
そう告げれば、彼は大仰に溜息を吐き、ついでに大袈裟に頭を抱えてみせた。どうやらオレの言葉は彼の望む答えにはほど遠かったらしい。
「ああもう、本当アンタって、アンタって・・・!」
信じられないと言わんばかりの様子で、何事かブツブツ零し始めた彼へ。
「御飯、早く食べないと冷めますよ?」
折角気を遣って言ったのに、嘆く声はますます大きくなる一方だった。






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