ススム

● やっぱり犬がすき? --- 1 ●




眠りの底をゆるゆるとたゆたっていた意識が、ゆっくりと浮上する。
それに伴って開いた目の先、焦点が合わずぼんやりと霞んでいるような視界がクリアになるにつれ、ここが自らのアパートの部屋でないことにイルカは気付いた。
見覚えのない天井、見覚えのない壁、見覚えのない本棚と、そこに収められたやはり見覚えのない本達。
そして何より、今横になっているベッド。
それがイルカの普段使用している湿気た煎餅布団とは違う、程良いやわらかさと素晴らしい寝心地とを兼ね備えた上等な品であるという事実。
しかしそれらへ疑問を抱く前に、不意打ちのように襲いくる頭痛によって、イルカの意識はいやおうなくそちらへと向く。
頭の内側で血管という血管がはち切れんばかりにだくだくと脈打つ様を想像しながら、同時に込み上げてくる不快感―――それは胸中をむかむかと満たす酸っぱさであり、気を抜くとせり上がってくる吐き気であり―――に大きく顔を顰める。
この感覚には覚えがある。二日酔いだ。
どうも呑み過ぎたらしい、というところまで考えて、イルカは漸く昨日の出来事へと思いを馳せ始める。そして、ひとつの事実に至る。


昨日は―――そうだ、カカシ先生を誘って呑みに行ったんだ。


イルカにとってカカシは、雲の上の人そのものだった。
五歳で中忍、暗部にも所属し、他里の手配帳にまで名が載るほどの実力を持つカカシ。
あるところでは生きる伝説とまで称される、その人に纏わる様々な噂は、華やかな経歴と共に外回りの忍だけでなくイルカ達のような内勤の忍の間でも流布していた。
ある種のやっかみや畏怖、羨望をも籠めたそれらは里内で実しやかに広まり、当人の与り知らぬところではたけカカシという名を更に高いところまで持ち上げていた。
イルカの周りにも、カカシの信派を気取る輩は少なからず居る。イルカも表立ってはいなかったが、密かにカカシに憧れている一人だった。
ただ、信派の人間ほど熱心にカカシを崇めていたのではない。事あるごとに持ち出される噂話を、単純に、羨ましく聞くくらいのもの。
だからイルカは、そんな相手と関わり合いになるとは露ほども思っていなかった。
片や、木の葉の里内外において二つ名でもって賞賛される上忍。
片や、冴えないアカデミー教師の中忍。最近では人手の足りない受付所にまで回され、内勤業務が板に付いてきた勘すらある。
しかしながら、得てして運命というものは思わぬ方向に転がるものだ。
ひょんなことから、イルカはカカシと近しくなっていた。
それは、アカデミーを卒業したナルトの功績が大きい。
下忍選抜に合格したナルトが、意気揚々とイルカに報告をしにやって来た時のことだ。
「イルカせんせ―!」
大きな声でイルカの名を呼びながら駆け寄ってくるナルトに表情を緩めたのも束の間。
その後方からゆっくりと歩み寄ってくるカカシの姿を認めて硬直したイルカに、ナルトは遠慮なく抱き付きながら。
「イルカ先生、オレ下忍になったんだってばよ!すげーだろ!で、これがカカシ先生ね」
「これ、ってお前ね・・・」
ナルトが指を差した先に立っていたカカシが呆れたように言う。
本来なら、ナルトが上位の者に対して不遜な口の利き方をすればすぐに拳骨一閃だったろう。
けれど、この時のイルカはそこまで思い及ぶことはなかった。それほどこの突然の対面に驚き、柄にもなく緊張していたのだ。
「どうも初めまして・・・えーと、イルカ先生、とお呼びしても?」
いきなり、カカシから気さくに話し掛けられた。
それだけでイルカは完全に舞い上がってしまった。何か言おうと口をぱくぱく開閉させてみても、肝心の言葉が出てこない。
そんなイルカに「イルカ先生?」とカカシから再び声が掛かる。そこで漸く、慌てふためきながら。
「い、いえ、もう呼び捨てでも何でも!あの、は、初めましてはたけ上忍!」
思わず最敬礼の角度で大きく頭を下げる。
すると、イルカの頭上からふっと笑うような息が漏れた。
それにイルカがこわごわ頭を上げれば、目の前のカカシが唯一覗いている右目をやわらかく細めて。
「はたけ上忍、なんて堅苦しくなくていいですよ。オレもイルカ先生って呼んでるのに」
「そうだってばよ。イルカ先生もカカシ先生って呼べばいいじゃん」
カカシの言葉に賛同するように、ナルトが無邪気に言ってのける。
二人の言葉を聞きながら、それでもイルカは戸惑っていた。
実力主義の忍の里において、上下の関係は何より侵し難いものとして存在する。その扱いひとつ取ってみても、上忍と中忍では雲泥の差である。
敬称の代わりに、各人の呼称の後に上忍、中忍、と付けるところからもわかるように、立場の差も歴然。それは昔から連綿と受け継がれる、暗黙の了解事項でもあるのだ。
そこにきて、今の状況。カカシ本人がいいと言っても、周りから見れば不敬として取られるのでは、と悩むイルカに。
「・・・イルカ先生は真面目なんですねぇ」
苦笑気味にカカシは零して。
「じゃあ、こうしましょう。オレも先生をするのは初めてなんです。イルカ先生には先生の先輩としてこれからもお世話になると思うんで、オレのことも同輩として先生付けて呼んでください」
よろしくイルカ先生、とカカシがイルカに向かって手を差し伸べてくる。
その気負わない風情とやわらかい物腰に、イルカのカカシに対する好感度が一気に上がったことは言うまでもない。
様々に流布する噂の中には眉を顰めるものもあったが、やはり噂は噂。あてにはならないと、この時イルカは思った。
実際にカカシと話して、その存在が身近に感じられたというのも大きいのかもしれないが。
「こちらこそよろしくお願いします、カカシ先生」
カカシの手をしっかり握って答えれば、カカシはどこか嬉しそうに笑っていた。




そこから始まった関係は、徐々に形を変えていった。
カカシがその気さくな態度で、イルカを食事や呑みに誘うのだ。
勿論、イルカとしても憧れのカカシから誘われて断る道理もない。仕事などでどうしても抜けられない時以外は、全て誘いに乗っていた。
最初こそ「ナルト達のことで」という名目だったのが、その内ナルト達の話題を間に挟むことは少なくなっていった。
様々な話をし、打ち解けていくにつれ、いつしか気安く軽口を叩きあうまでになった。ただの元担任と現上司という関係から、階級を越えた友人へと変化していったのだ。
初めてイルカがカカシの隠された素顔を見たのも、カカシに誘われた酒の席であった。
酒を酌み交わす最中、何気なく口布と額当てとを外したカカシを目にした。その際、驚きのあまりたっぷり十数秒は固まってから、慌てて瞼を閉じたイルカに。
「別に構わないですよ。見ても目は潰れませんから」
などと、カカシは笑っていたものだ。そこでイルカは、恐る恐る瞼を開いた。
噂に名高いその素顔は、イルカを見惚れさせるには十分だった。すっと通った鼻筋に、薄い唇。涼やかそうな目元も、今はやわらかく弧を描き、親しみやすさを増している。
元々の顔のつくりがきれいな為か、左目の上に走る傷さえ計算しつくされた末にそこに在るようだった。
「どうです、オレの顔」
「いや、格好良いです。こりゃ女が騒ぐのも無理ないっていうか」
「イルカ先生に言われるとちょっと照れますね」
そう言いながら、カカシはグラスに注がれた日本酒に口を付ける。何気ない仕草も妙に様になって見えるのは色男の特権だろう。
きっと、カカシは付き合う相手に困ったことなど一度もない筈。
そんなことをいちいち考えてしまう自分に、イルカは気付いていた。
驕ることも、偉ぶることもなく、常に自然体のカカシに友情以上のものを覚えたのはいつだったか。
「ナルトから話を聞いた時、オレ、イルカ先生と仲良くなりたいって思ったんですよね」
酒の席で零された、そんな言葉にすら舞い上がってしまうほどに。カカシに他意はないとわかっていながらも、つい意識してしまう。
同性同士ということや階級の違いなども飛び越えて、日々募っていくカカシへの想い。
自覚した恋慕の情は、押し留めておくのが難しくなるまでにそう時間はかからなかった。
カカシに、現在付き合う相手が居ないことも、それに拍車を掛ける。しかし、カカシ狙いのくノ一達が大勢いるのもまた事実だった。
実際、妙齢のくノ一達にとって、整った容姿と共に経済力とブランド力をも併せ持つカカシは非常に魅力的な獲物なのだ。
日々、多様な相手からアプローチされているのをイルカも目にしている。
今のところ、カカシは相手にしていないようだが、それがいつ覆るかはわからない。
カカシが次に誰と付き合うか、というのが目下くノ一達の間で話題に上らない日はないのだ。
だからこそイルカは、受付所まで報告書を出しにやって来たカカシへ、勇気を持って誘いをかけていた。
想いを告げて玉砕し、この関係が壊れることになっても、何もしないまま、くの一達の動向に一喜一憂するよりはいいと思ったのだ。
ただ、内心では決死の覚悟であったが。
「イルカ先生から誘ってくれるなんて珍しいですね」
そう言いながらも、何も知らないカカシは快く了承してくれた。
これが昨日のことだ。
そしてイルカの仕事が終るのを待ってくれていたカカシと連れ立って、二人でよく利用する居酒屋へと赴いた。
その居酒屋は、狭いながらもそれぞれのテーブルが壁で仕切られ完全な個室になっているというつくりの店だった。
全体的に仄暗い照明と、静かに流れる音楽。テーブルの下は掘り炬燵のようになっており、室内が狭くても十分に足が伸ばせる。
また、値段が手頃で料理もそこそこ美味しいというのも、イルカが気に入っている点だった。カカシも、人目を気にせず居られるのがいい、と言う。
「折角呑むのに、無粋なものを付けていたくはないですからね」
と。やはりカカシにも色々あるらしい。
そこでいつものように、適当に料理を頼み、酒を呑み始めた。ただ、イルカはいつもより早いピッチで杯を空けていた。それも強いものばかりを手当たり次第に。
その様子を見ていたカカシに。
「先生、ちょっと早過ぎない?大丈夫なの」
などと心配されもしたが、イルカは大丈夫と答え、更に杯を重ねた。いつもはカカシの前で醜態を晒すことがないよう努めている為、こんな呑み方はしないのだ。
けれど、素面のままではとてもいられなかった。それほどに、今からカカシに告げようとしていることは、イルカにとって大それていたのだ。
いつも以上にしっかりと酒を流し込み、漸く緊張が解れ始めたところで。
「かかしせんせぇ」
既に呂律が怪しくなり始めているイルカに、カカシは少し困ったように笑って。
「はい、何でしょう?」
その笑顔に、イルカはテーブルの下、膝の上に置かれた手を固く握り締めながら。
「あの、じつ、はオレ、その・・あ、あなた、がすき、なんでス・・・」
最後は消え入りそうな声で、この短い言葉をつっかえながら告げる。顔は、酒の所為だけではない熱で真っ赤だった。
しかしイルカから告白を受けても、目の前に座るカカシは顔色ひとつ変えなかった。
驚いた様子もなければ、困惑した様子もなく、相変わらず少し困ったような笑みを顔に湛えたままで言う。
「イルカ先生は、犬みたいで好きですよ」
「はあ、犬ですか」
あまりにも気負いのない、あっさりとしたカカシの言葉につられるようにイルカも返しながら。

犬。

犬みたい。

犬みたいで好き。

・・・それってどういうことだろう?

酒で霞みかける頭で必死に考えを巡らせていると。
「犬はいいですよ。いつだって従順で、可愛くて、いじらしいほどに一途だし。どんな時でも偽ることなく、まっすぐにオレのことを好きだって教えてくれる」
どこかうっとりとした表情で宣うカカシは、「はぁ」とどこか抜けたような相槌を打つイルカに対して。
「人はね、犬と違って嘘を吐けるんですよ」
カカシから伸びてきた指が、イルカの唇に触れる。それは肌の色通りにひやりとしていた。カカシもイルカほど、とはいかなくとも、それなりに酒が入っている筈なのだが。
そんなイルカの思惑など知る由もないだろうカカシは、イルカの唇をそっとなぞるように動かしながら。
「オレ、そういうのが苦手でして。面倒くさい腹のさぐり合いは任務の時だけで十分」
そう言うと、まっすぐにイルカを見る。
その顔には笑みが乗っているのに、イルカはカカシから拒絶されているように感じた。笑顔そのものが壁のようだった。
人よりも犬を好むカカシ。カカシが犬好きだというのは本人からの自己申告で知りえてはいたが、まさかここまでとはイルカも思っていなかった。
イルカを犬みたいで好きとは言えども、それはあくまでイルカが犬のようだから好き、ということで。
裏を返せば、イルカよりも犬の方が良く、また犬の方がイルカより上ということになる。
ならばカカシは、イルカが本物の犬だったなら付き合っていたとでもいうのだろうか。イルカが人間だから、想いに応えられないとでも。
その事実を認識していくにつれ、イルカの中に湧いてきたのは呆れとも虚しさともつかない、苛立ちを多分に含む感情だった。
しかしながら、それは紛れもなく怒りに近いものであった。
犬みたいと言われようと、イルカはれっきとした人間なのだ。犬にも感情なり好意なりがあるのかもしれないが、それとイルカの恋情を一緒にされたくはない。
イルカはカカシに頭を撫でられれば満足して尻尾を振るようには出来ていないのだ。
イルカなりに覚悟を決めて想いを告げたというのに、犬ではないからダメ、などとは到底納得出来ない。
バカにするなよ、とばかりに、イルカは唇に押し当てられていたカカシの指に噛み付いていた。
通常の状態でならやろうと思っても出来ないことであったろうが、酒が入って気が大きくなっているイルカには造作もないことだった。
歯に生まれた弾力のある肉の感触に、更にぐっと力を籠めれば、初めてカカシが驚いたような顔をして。
「噛みますか、普通?」
どこか間の抜けたように問うてくるのに、イルカは少しばかり胸のすく思いを味わいながら。
「犬だってムカつきゃ噛むでしょうよ」
これみよがしに鼻を鳴らして、ついでにカチカチと自らの健康的な歯をアピールする。口から解放したカカシの指にはくっきりと歯型が付いていた。
それにカカシは静かに息を吐いて。
「・・・イルカ先生は躾のし甲斐がありそうですね」
面白い、といわんばかりに目を細め、どこか挑戦的にイルカを見つめる。それは、初めて見せるような表情だった。
それにイルカもにっこりと笑ってみせて。
「望むところですよ」







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