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続いてゆく日々のいとしさ

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五月十九日

彼が、今日から受付所専属になりました、と言った。
それはごく自然に、オレの作った夕飯のメニューを「美味そうですね」と言ったのと同じ口調だった。
卓袱台の上で、出来たての肉じゃがから醤油の甘辛い匂いと共にほこほこと美味しそうな湯気が立つ。その傍に、緑の鮮やかな青菜の胡麻和えとひじきの煮物が並ぶ。そして炒り子で出汁を取った若布と豆腐のみそ汁は未だ手に持つお盆の上。御飯だけ釜の中で出番待ちだった。
それらを並べる手を止めて、オレは思わず彼の顔を見つめる。
「なーに可笑しな顔をしてるんですか!」
彼は笑っていたけれど、とても笑い返す余裕はなかった。
そもそもちっとも笑える話じゃない。
またどうしてこういう時にそんな話をするんだろう。今じゃなくても良い、というよりもっと別の機会にきちんと話をするべきなのではないか。
なんて一瞬間の内にオレはぐるぐると考えてしまったのだけれど。
―――誰かと食卓を囲む時間は話をする時間と相場が決まっているんです。
元々そう言って憚らない人なので、口に出し易かったのかもしれない。そういえば、以前失明すると告げられたのも夕飯の時間だったと思い出す。
「これからは空いた時間が増えるから、アンタと過ごせる時間も増えますよ。ね、嬉しいでしょう?」
またも笑いながら気安い調子で言われる。そこに取り繕う様子は一切見られず、悲壮な気配も感じ取れなかった。
前々から「もっと状態が悪くなったら教師は辞めないと」と口癖のように言っていたのは知っている。「辞めたら、見えてる内にどっか旅行にも行きたいですよね」とも。
でも実際は様々な葛藤があったに違いない、とも思う。彼ほど教師に向き、また教師という職種を愛していた人間もいないだろうから。子供の頃から教師になりたくて、漸くなれた時は本当に嬉しかった、と言われたこともある。
悔しいだろう。無念でならないだろう。
・・・などと彼の気持ちを想像してみても、全て推測の域を出ないのだけれど。
黙りこくるオレに向かって、彼は相変わらず笑いながら口を開く。
「アンタは傍に居てくれるんでしょう?幽霊になっても」
以前に告げた言葉をなぞるように訊ねられ、オレは力強く「勿論です!」と答える。その気持ちは少しも変わらず、揺らいでもいないんだ。
「なら、いいんですそれで。さあ、御飯にしましょうか。オレもうお腹ペコペコです」
そう言いながら彼が卓袱台の前に着いた。すぐに御飯下さい、と催促を始めた相手に少しだけ救われたような、でも完全には納得出来ないものを抱く。
それでも、それ以上何を告げるのも憚られてオレは御飯をよそいに一人台所へと立った。





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