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続いてゆく日々のいとしさ




五月十八日

風呂から上がったら、彼は完全に夢の世界の住人だった。
卓袱台に突っ伏すようにして眠る頬の下に、採点途中のテスト用紙が敷かれている。
採点の最中に、ついうとうとなって、そのまま沈んだに違いない。
でもきっと眠る気はなかったのだろう。その証拠に鼻には眼鏡が掛かったまま、手には赤ペンが握られたままだった。
疲れているんだな、と思う。
ここ暫く、家で持ち帰りの仕事をしている姿を目にする機会が増えた。
・・・本音を言えば目のこともあるから自重して欲しい。
けれど、彼曰く「そういう訳にはいかない」らしい。

「アンタが身体張って任務をやっているように、コレがオレの身体張ってやるべき仕事なんです。大変ですけどその分、遣り甲斐もあるんですよ」

そう言って、笑っていた顔を思う。
彼は朝早くから夜遅くまで、どんな仕事でも手を抜かずに真面目にこなす。不満もあるだろうに、オレの前では殆ど愚痴らしきものを零したことがない。その姿勢は付き合う前から今迄、少しも変わっていない。
どれだけ忙しくとも、今の仕事が本当に好きなのだろう。
その証拠に、アカデミーで子供達に囲まれている彼の表情がいつも生き生きしているのを、オレは誰より知っている。
実際、オレはアカデミーの子供や仕事にすら妬いた前科があるくらいだった。
でもそういうところが彼らしくて、昔も今現在も惹かれ続けているんだけれど。
それにしても・・・この格好で眼鏡掛けたままだとフレーム歪みそうだな。
彼の傍に近付いて、そっと眼鏡を外してやる。ついでに手から赤ペンを抜いてやることも忘れない。
鼻の付け根に、眼鏡を押さえる部品で圧迫されて出来た痕があった。
そこだけ赤くなった肌が顔の中で浮いて見えて、なんとなく指で撫でてみる。
近頃、彼は家で眼鏡を掛ける機会が増えた。持ち帰りの仕事をする時だけでなく、本や巻物を読む時にも必ず掛けている。
それでも時折見え難そうにしていて、「そろそろ買い換えないとなぁ」なんて零しているのも聞いた。
何気なく、手の中の眼鏡を目に充ててみる。
するとすぐに目がチカチカし出して、目前の光景が奇妙に歪んで見えた。次いで船酔いをした時のような眩暈に襲われたオレは、慌てて眼鏡を外していた。
かなり度がきついレンズなのだろう。それでも見え難くしているということは・・・確実に症状が進んでいるということか。
日常の中で不意にそれを認識させられる度、複雑な心持ちになる。
己のことではないのに妙に心許なくなるような、足許が不確かに揺らぐような。ざわざわと胸が騒いで酷く落ち着かない気分になるんだ。
少し前、彼に怖くないの、と訊いた。
あの時はきっとどうにかなる、とあっさり言われたけれど。
・・・でも本当は、どう思っているんだろうか。
オレは、彼を見つめてみる。
その安らかともいえる寝顔を見つめてみても、オレの胸に生じた澱は消えなかった。







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