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続いてゆく日々のいとしさ




五月十六日

ジジイから貰った本を基に、彼が失明した後の訓練を始めることにした。
実際、いつ見えなくなるともしれない状態だ。訓練を始めるのも早いに越したことはないだろう、と思って。
まず手始めに、目隠しをして部屋の中を歩く練習から。
目が見えないからといって、室内すらまともに歩けないのでは日常生活に困る。それに突発的な任務でオレが四六時中傍に付いていられない場合もある。だから余計にその必要性を感じていたんだ。
・・・けれど、訓練を開始して僅かな時間で壁に激突したり、ちょっとした段差で躓いて転びそうになったり、箪笥の角に足の小指をぶつけて声にならない悲鳴を上げたりと、今見る限りでは前途は多難そうだった。
目隠しをした彼は一見慎重に歩いている様子なのに、どうにも注意が足りていないらしい。
ただ、思わず吐いてしまった溜息は、目隠しをしたままの彼にばっちり勘付かれてしまったのだけれど。
「なら、アンタもやってみて下さいよ!」
腹立たしげに言われて外した目隠しを手渡される。こうなると、彼が望む通りにするまで曲がった臍が治らないというのは、今迄の付き合いの中で十二分に理解している。
仕方なく、オレも目隠しをして同じことをやってみる。
すると、案外すいすいと部屋の中を歩けてしまった。転びそうになることも、壁に激突することも、勿論小指をぶつけることもなかった。
オレの場合は任務なんかで夜目も利かない暗闇の中、感覚だけを頼りに移動することもあるから、その点彼より慣れているのかもしれない。
そんなことを考えながら目隠しを取って彼の方を見たら、どこか忌々しげな視線を送られた。ついでに思いっきり舌打ちまでされるに至り、出来たらダメなの?と少しばかり面食らったが・・・敢えて余計なことは口に出さないでおいた。彼はこう見えて、意外と負けず嫌いなところがあるんだ。
その後、気を取り直して専用の白杖を用いた外歩きの訓練も行ったが、結果は先程と大差が無いほど酷いものだった。
地面の起伏に傾斜、石などの障害物、歩行者など、外は外で部屋の中とは違う危険がある。彼の様子を傍で見ていたオレが、どれだけ肝を冷やしたかわからない。それでも、怪我が無かっただけマシだったかもしれない。彼ひとりで外を出歩けるようになるまでには、まだまだ時間が掛かりそうだった。
そういえば、これもオレが試しにやろうとしたら。
「やんなくていいです。腹立つから」
にべも無く断られた。その顔付きからして不機嫌オーラ全開で、しつこく食い下がるとすぐにでも爆発しそうな様子だったので素直に引き下がってはみたものの。
・・・でも、オレは悪くないですよ?
そう弁解したかったけれど、結局最後まで出来ず終いだった。今は何を言っても火に油になるだろう。引くところは引かないと、訓練自体を止めてしまう可能性がある。それでは拙いんだ。
不機嫌そうな彼を宥め透かしつつ、次いで点字の勉強に移る。この機会に、必要になることを少しずつ始めておくつもりだった。
まずは、点字の五十音を覚えるところから。
ジジイから貰った本に付いていた、五十音分の点字が載った一枚のプレート。その上を、目隠しした彼の手を導いて一文字ずつ指で触れてもらう。
「これが『い』で、これが『る』で、これが『か』。この三つで『いるか』、アンタの名前です」
「ふーん、これでオレの名前なんですか。点字だと全然違いますね」
「じゃあ次、この点字三つで何と読むと思います?」
「うーん、はじめのと次のは同じ形、ですよね。何だろう」
「最初のふたつは、さっきも触りましたよ」
「え?じゃあ『いい』か『るる』か『かか』・・・ってもしかして、『かかし』?」
「その通り。自分の名前と一緒にオレのも覚えておいて下さいね」
そう言ったら、「はいはい、その内ね」と軽くあしらわれたのだけれど。



「しかし見えないって大変ですねぇ」
訓練を終えて目隠しを取りながら、彼はどこか他人事のように言う。
それに思わず、溜息を吐きそうになってしまった。
「アンタね、自分のことでしょうが・・・」
なんていうか、彼には失明するという自覚や危機感が足りていない気がする。彼よりオレの方が余程敏感で、焦っているんじゃないだろうか。
見えなくなることに対して、何も感じていないのか。怖いとかどうしようとか、少しも思うところはないのだろうか。
「アンタは怖くないの、目が見えなくなるのに」
すると彼は考えるような素振りを見せてから、あっさりと言ってのけた。
「怖くありませんよ、きっとどうにかなるでしょうし」
その言葉に、思わず脱力しそうになる。彼の場合、結構本気で言ってそうだから余計に。
「・・・せめてオレが居るから心配してない、くらい言ってくださいよ」
少し面白くない心持ちでそう零したら、苦笑いの表情を浮かべた彼がまたもあっさりと問題発言をする。
「でもまあ、何事もなるようにはなるんですよ。たとえ目が見えなくなって、アンタがオレから離れたとしても、多分それなりに生きていけると思うし」
まるで、そうなっても仕方がないとでも言いたげな口調に、オレは頭に血が上るのを感じた。
「さっきから聞いてれば、アンタはオレを何だと思ってるの!馬鹿にしないでよ!!」
そこまで一気に捲し立てて、鼻で大きく息を吸う。
時々、彼はこうしてオレを試すようなことを口にする。彼はいつだってオレの思いを軽く考え過ぎなんだ。見損なってもらっちゃ困る。
肺一杯に溜まった空気を皆吐き出すつもりで、オレは改めて言葉を次ぐ。
「オレはね、アンタが死ぬまで傍に居るって決めてるんです!もし仮にオレが先に死んだとしても、幽霊になってでも傍に居座るつもりなんですから!!離れる気なんてこれっぽちもないから覚悟してなさいよ!!!」
実はこれ、ずっと前から心に決めていることだったりする。たとえオレが先に死んでも、彼が心配でおちおち成仏なんかしていられないだろうから。大体、離れるなんて今迄一度も考えたことがないんだ。
オレの言葉を聞いた彼は一瞬呆気に取られたような顔をした。
その後すぐに「なんですか、それ」と笑っていたけれど。
「・・・ならまあ、期待しないで待ってますよ」
なんて可愛げの無いことを少し照れ臭そうに、でもとても嬉しそうに口にするから。
「なんですかそれ」
オレもそう返して、なんとなく互いに顔を見合わせて。
いつしかそのまま、ふたりして笑っていた。






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