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続いてゆく日々のいとしさ

12




五月二十二日

朝からそわそわと心が落ち着かない。
休みの日だというのにどこかに出掛ける気が起こらず、それでも部屋の中でじっと大人しくもしていられない。何をしても気は漫ろになるが、一方で何もしないという状況にも耐えかねる。
現状打破の為、部屋の窓や浴室の壁、シンクやコンロ周りといった普段なかなか掃除出来ない部分を無心に磨き上げてみる。
そのお陰か、気付くと部屋の中が小奇麗になっていた。ちょっとだけ気分が上向くが、またすぐにそわそわと落ち着かなくなっていく。
どうしてここまで心が落ち着かないのか。
それにも勿論理由がある。
今日、オレは彼にプロポーズをするつもりなのだ。
昨晩の件をジジイと別れてからも自分なりにずっと考え―――朝、仕事に出掛ける彼を見送った段階で漸く決心がついた。
こういうことは切欠が大事なのだと思う。
思い立ったが吉日という言葉通り、オレの性格上今日を逃したらこのままずるずると中途半端な関係を続けてしまう気がしたのだ。
それに今日はオレが休みだった、というのも後押しになった。
どうなるにしろ、今後の為にもケリを付けるなら早い方がいい。
彼が仕事から帰ってきたら言う、と決めていたので時間が経つにつれて緊張感が否応なく増していく。未だ嘗て、こんなに緊張したことは高ランクの任務中でもないかもしれない。
今だって少しも落ち着かず、部屋の中をそわそわと歩き回っている。
だからといって心が落ち着くかといわれたら、そんなことは決してないのだけれど。
・・・これではいけない。男子たるものこういう時こそどっしり構えていなくては。
そう思い、畳に腰を下ろしてみたが、やはり落ち着かない。
身体を小刻みに揺すってみたり、視線をうろうろと彷徨わせた揚げ句、畳の目をひとつずつ数えてみたりしても落ち着く気配は一切ない。
オレがイチャパラを全く読む気がしないというのも珍しい。たとえ本を開いて文字を目で追ったとしても内容が頭に入ってこないのは目に見えていた。それでもいつもの癖で何度も手に取り、パラパラとページを捲る。勿論、内容は頭に入らず終いでその度落胆する羽目になったのだが。
そうこうしている内に、玄関の扉が開く音と共に「ただいま」という彼の声。いつの間にかそんな時間になっていたらしい。
帰ってきた!と思った瞬間、オレの心臓はけたたましく鳴り出した。
気を抜くと口から心臓が飛び出さんばかりの勢いだった。
第一級戦闘態勢ばりの身のこなしで、オレは畳の上にきちんと正座をし、やって来る彼を待ち構える。
居間に姿を見せた彼は、オレを見て何故かびくりと身を竦ませた。
そのまま何事かと訝る顔付きで以てこちらの様子を覗っている。
そんな相手に向けて、手招きをする。すると彼は怪訝そうな表情を隠そうともせずにまじまじとオレを見た。しかしその内、諦めたようにカバンを下ろすと目前に正座をする。これで漸く舞台は整った。
さて、どう切り出したものか。
オレが逡巡する間に、彼の方がおずおずと口を開いた。
「・・・どうかしたんですか?」
「あのっ、オレに毎日みそ汁を作らせてくれませんか!」
オレは反射的に、朝から延々と頭の中で反芻していた言葉を告げた。
意気込みが過ぎたのか、勢いの付いた声の大きさに彼が若干身を引く。
それでも僅かの間を置いて返った答えは、至極あっさりしたものだった。
「はあ、作ればいいんじゃないですかねぇ」
なんで今更こんなことを、とでも言わんばかりの様子に、オレは一瞬にして挫けそうになった。言葉の意図が少しも伝わってないのは火を見るより明らかだったのだ。
作ってくれ、じゃなくて作らせて、というのが拙かったのか。でも実際これからはオレが作ることになるし、この方が正しいと思うけれど。
何にせよ、伝わっていないのなら仕方ない。次のにいこう!
「じゃあ、オレにアンタのパンツを洗わせて下さい!」
口に出した途端、彼の顔が大きく顰まったのがわかった。
その後、不審者を見るような目付きで以てオレを眺めながら。
「・・・いや、パンツくらいなら自分で洗いますけど」
言葉の端々から伝わる、どうにも軽蔑しきったというか、冷え冷えとしたものにオレは焦りを覚えずにいられない。
マズイ、彼は完全に何かを誤解している。別にオレはパンツにそこまで思い入れがある訳じゃなくて、いや全くないかといえばそうでもないけれど・・・って今はそんなことはどうだって良くて!
兎に角可及的速やかに彼の誤解を解く必要性を感じたオレは、気落ちしそうな心を叱咤して、再び口を開いていた。
「じゃ、じゃあ、オレと毎朝モーニングコーヒーを飲んでくれませんか!」
「・・・えーと、オレがあんまコーヒー得意じゃないの、知ってますよね?」
そうだった。
完全に頭から消えていたけれど、この人は普段コーヒーを飲まないんだった。どうしても飲まないといけない時は、嫌がらせのようにミルクと砂糖をどばどば投入するんだったよ。
勿論、そんな彼にこの言葉の真意が伝わった様子は微塵もない。
今度こそがっくりと肩を落としたオレに、彼からついに決定打。
「あの、さっきから全然意味がわからないんですけど」
・・・オレがこれだけ一生懸命なのに、何故伝わらないのだろうか。
オレは腹立たしい思いに駆られながら、彼に向かって叫んでいた。
「アンタは本当に鈍いですね!オレがさっきからプロポーズしてるってのに!!」
この言葉に、彼はぱちぱちと幾度か目を瞬かせた後で、漸く気付いたみたいに「プロポーズ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「そうですよっ!人が一生懸命考えて言ってるのに、ちっとも気付かないしっ!!」
詰るように言えば、彼は呆けたようにオレを見た。そして何を思ったか、「オレ男なんですが」などと今更わかりきったことを口に出す始末で。
「ンなことは付き合い出した頃からわかってますよ。オレも籍とかそういうのに括るんじゃないけど、でも最近アンタ、目が見え難くなったって言うじゃない。これからも堂々と面倒を見られるように、ちゃんとしておきたいって思ったんです」
口に出す内、段々照れ臭くなってくるのに比例して声も小さくなっていく。最後はぼそぼそと口の中で転がす程度の声量になっていた。
改めて言葉にすると、案外照れるモンなんだよ、こういうのって。
誤魔化すように頭を掻いていたオレに、何故か彼は鋭い眼差しを向けた。次いで、詰問調で訊ねられる。
「・・・カカシさん、アンタ先生に何か言われませんでした?」
ぎくり、とした。忍は感情を表に出すべからずとは言われているが、咄嗟には無理だった。
そんなオレを見て、彼は静かに息を吐いた。そして今度は淡々とした口調でこちらに向かい合う。
「先生に何を言われたか知りませんけど、オレは籍に拘る必要はないと思うんです。オレは子供が産める訳じゃないし、それに伴う責任なんてものも勿論ない。それにオレの目のことをアンタが気にする必要だって少しもないんですよ?オレの存在が面倒だとか迷惑だと思ったら離れてくれたらいい。それでアンタを恨みに思うなんて絶対ありませんから」
「・・・ちょっと待った。アンタはずっとそんな風に思ってたの?」
聞き捨てならなかった。まるでオレのことをまるっきり信じていないとでも言わんばかりの物言いだったのだ。
少し前にも彼とこんな話をしたことがある。でもその時、オレの言葉を聞いた彼は本当に嬉しそうにしていた。だからオレの思いだってきちんと伝わっていると信じていた。なのに、どうしてこんなことを言い出すのか。
大体、オレの決意と覚悟ってそんなに安いモンじゃないんだけど!
「オレはね、ずっとアンタの傍に居たいの。子供が産めなかろうが、目が見えなくなろうが関係ない。うみのイルカ、アンタだからこそ傍に居たいんだ。それに迷惑とか面倒とか、そんなことを思ってたら最初からアンタと付き合ってないよ」
言いながら、オレは身の内が奇妙に静まるのを感じていた。何事かに対して強い怒りを覚えると、オレの場合激するのではなく逆に冷静になるのだ。しかしながら、しんと静まりながらもオレの腸はしっかり煮え繰り返っていた。
オレの思いが今の今迄彼に少しも伝わっていなかったようで悔しかった。腹が立った。
だからつい、本音も出た。
「男同志なんてそもそも有り得ないって思ってたしさ」
「有り得なかったんですか?」
訊き返されて、オレは慌てた。うわ、余計なこと言っちゃった!
「今は違うからね!」
そう言った後でふと思う。
いや、でも彼以外とは有り得ないって思うから違わないのか・・・?
などと余計なことを考えている間も、彼の視線はオレに向いている。
「ま、兎に角オレはアンタと一緒に居たいって思うし、その覚悟もある。後はアンタの気持ちひとつだよ」
どうにか誤魔化すように告げてから、オレは彼とまっすぐに向き合う。
「もう一回訊きます。オレとこれから、一生ずっと一緒に居てくれませんか?」
オレの言葉に、最初彼は怒ったような顔をしていた。けれどその中には困惑や戸惑いという表情も確かに見て取れた。長く傍に居ても、こうして彼の表情で感情を察するのが難しい場合もある。
彼は一体今、何を思っているのだろう。
互いに口を開かないので場には自然と沈黙が落ちている。
静かな分、時間がいやに長く感じる。かといって、こちらから口を開くのも躊躇われる。
・・・もし、これでダメって言われたらどうしよう。でもダメって言われても、はいそうですかなんて引き下がれないけれど。
そんなことをぐるぐる考えているところで、不意に彼が口を開いた。
「・・・宜しくお願いします」
それにオレは「え?」なんて間抜けな声を上げていた。
自分の耳で聞いた言葉がすぐには信じられなかったんだ。
「いいの、本当に?」
「いいも悪いも。嫌なら止めますか?」
「とんでもない!」
オレは大きな声を上げていた。彼が吃驚したような面持ちでこちらを見たけれど、気にしてなんていられない。
「こちらこそ宜しくお願いします!」
両手を畳に付いて思いっきり頭を下げれば、今度は見事に苦笑された。そういえば、正座で畳に手を付いて頭を下げるってこの格好・・・なんだか土下座みたいだよな。もしくは決死の懇願か。
そんなことを思うオレの前で、ぐうぅと盛大に腹が鳴る。
すると彼が眉を下げた情けない顔でオレを見た。
「・・・取り敢えずオレ、ご飯食べたいんですけど」
なんとも締らない発言だが、よくよく考えれば夕飯も食べずに顔を突き合わせていたんだから仕方ないかと思い直す。
しかしそこでオレは気付く。
今日の夕飯の当番はオレで、一切何の準備もしていないという事実に。
プロポーズで一杯一杯だったのは間違いないが、ここまで綺麗に忘れていたなんて。しかも夕飯の買い物はおろかご飯すら炊いていない。最悪だ・・・!
そこまで思い至って動揺するオレに、何もかも悟ったらしい彼がにかっと歯を見せて笑う。
「じゃあ何か食べに行きましょうか。オレ、ラーメンと餃子か、それかレバニラって感じなんですよね。カカシさんは何食べたいですか。がっつりいくか、それともあっさり軽め?」
いつもの調子で訊ねてくる彼に、オレは肩から力が抜けるのを感じた。
プロポーズした直後だっていうのに、全然それらしい雰囲気がない。
なんかもっとこう、プロホーズ前後で彼の様子だとか自分の気持ちが劇的に変わるのを想像していたんだけれど、そんなこともないらしい。
プロポーズしても腹は減るし、ラーメンと餃子かレバニラだし。
ああ、そういやオレもなんだか腹が減ってきた。
「オレ、秋刀魚食べたいです」
「秋刀魚ならあそこの定食屋ですね。オレ的にはビールもいきたいところだなぁ」
レバニラレバニラビールビールと不思議な節をつけて歌う彼が、カバンから取り出した財布を下履きのポケットに突っ込んでいる。
それを正座したままぼんやりと眺めているところで。
「何ぼーっとしてるんですか、早く行きましょうよ!」
急かすように言って、準備万端といった様子の彼がオレを振り返る。
まるで愚図愚図しているとレバニラとビールが逃げる、とでも言い出しそうな顔付きだ。
ああ、本当に何も変わらないんだな。
思わず噴き出したオレに、彼は少し唇を尖らせて「なんですか」と拗ねたように言う。
「なんでもないよ、行こう」
畳から立ち上がったオレは、玄関先で待ち侘びる彼と連れ立って部屋を出た。







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