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続いてゆく日々のいとしさ

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五月二十三日

彼が手元の紙に視線を落とし、確かめるように文字を目で追っている。
受付所で馴染みの光景が、今彼の部屋の中で行なわれている。
それに多少の違和を覚えつつ、オレは姿勢を正して僅かな緊張感と共に様子を見つめている。
その内、彼の目がある一点で止まった。
右手で紙の傍に置かれた印鑑を摘まみ上げると、印鑑ケースに付いた、使い込まれ磨り減った朱肉にぐりぐりと押し付ける。
そしてあくまで無造作な所作で以て、紙の上にポンと落とす。

「出来ました」

そう言って顔を上げた彼は、捺印された紙をこちらに差し出してくる。
両手でそれを受け取りながら、オレの中では奇妙な感慨が湧いていた。
紙の上でぱっと目に付く、彼の名の横に押された朱色の鮮やかな『うみの』の印と、その隣にあるオレの名と『はたけ』の印。
先程からオレ達が書いていたのは、婚姻届という奴だった。
昨日プロポーズをし、了承してくれた彼の気が変わらない内にと朝一で届出の用紙を貰ってきていたのだ。
それに今日はカレンダー上では大安吉日。
ならば尚更、今日出さずしていつ出すんだという心持ちだった。

・・・但し、婚姻届には証人の署名他捺印が二人必要だという事実を、用紙を貰って初めて知ったのだが。

どうしたものかと思ったら、丁度今し方任務から帰ったばかりというアスマと紅に会った。聞いてもいないのに、互いに異なる任務に従事して先程偶然受付所で会った、ということを強調されるのに苦笑いが洩れる。長い付き合いのオレにとってはその言い訳も最早聞き飽きた感がある。知られていないと思っているのは当人同士だけで、二人が付き合っている事実は案外広く知られているのだ。
そんな相手に、改めて事情を話すのがどうにも気恥かしくてならない。
互いの事情を十二分に知っている所為もあるのかもしれないけれど。
それでも背に腹は代えられず、覚悟を決めて二人に証人を頼む。
するとアスマからは「遂にお前も年貢の納め時か」と揶い半分に散々小突かれ、紅からは「よくイルカ先生が了解したわねぇ」などと微塵の遠慮もなく言われた。
ただ、口で何と言いながらも、嫌がる素振りもなく署名の他「印鑑ないから血判な」とそれぞれの名の横に指を押し当ててくれる。
・・・役所の人間にぎょっとされる可能性には、この際目を瞑ることにした。きちんと記入はされているから血判でも受理してくれるだろう。それに二人なりにオレ達を祝福してくれている心持ちを無碍には出来ない。
こうして偶然にしろ証人を得、やはりこれは今日提出すべきだとの思いを強くする。
だからこそ、急いで帰宅したオレは未だ寝ていた彼を叩き起こし、二人して婚姻届と向かい合っていた。
オレは改めて手に持った婚姻届を眺める。こんな薄っぺらい紙一枚で、赤の他人だった二人が結び付けられるのかと不思議な心持ちだった。
でもこれを出せばオレ達は名実共に生涯の伴侶となる。
たかが婚姻届、されど婚姻届、か。
そんなことを神妙に思っていると。
「これを出したら一緒になれるって、なんだか冗談みたいですよねぇ」
緊張感の欠片もなく彼は言う。
それにしても冗談って。何かもうちょっと言いようがあるでしょうに。
昨日も思ったけれど、彼とオレの結婚に関する温度差には著しいものがある。彼のことだから、婚姻届も宅配便や受付所の書類に判子を押すのと同程度にしか思っていないのかも。
などと少しばかり挫けそうになったが、どうにか真面目な顔を取り繕う。そしてひとつ咳払いをし、彼と向かい合った。
「昨日の今日なんで、取り敢えずこれ、指輪の代わりなんですけど」
下履きのポケットを探って取り出したのは、一枚のドッグタグ。
それを目にした彼の表情が一瞬にして険しいものに変わった。流石に伝わるものがあったらしい。
中忍以上の、ランクの高い任務に従事する者に与えられるドッグタグは、必ず二枚支給される。
一枚は個人の認識票として、任務中は必ず携帯し、身につけておくことになっている。
そしてもう一枚は家族や伴侶と呼べる者に渡すのが通例だった。
運が良ければ残る、自らの遺物の引渡票としての意味合いを持つのだ。
オレの場合、特殊な目を持っているから身体はその場で処理されて残らないに違いないけれど、携帯品のひとつくらいならどうにかなるかもしれない。その事実を、彼は十分過ぎるほどにわかっているのだろう。
それでもオレは彼に持っていて欲しかった。
「オレ、今迄こんなの誰にも渡したことがないんです。こういうのって、渡す相手を選ぶじゃないですか。それに渡したいと思える相手もずっと居なかったし。でもね、アンタには持っていて欲しい。どこに居たって、オレが帰りたいと思うのはアンタのところだけだから」
真摯に告げても、彼は唇を引き結んで押し黙ったままだった。
明らかに不機嫌な空気を漂わせる様子に、オレは何か拙いことを言ったのかと考え―――そこで、はたと思い至る。
「あ、それともしオレに何かあった時には、オレの遺産とかそういうの、全部アンタが受け取れるようにしておきますから。大丈夫ですよ」
オレの身に何某かあったとしても残された彼に苦労や不自由な思いをさせたくはない。仮にオレが居なくなってから彼が失明したとしても困らないよう、普通に暮らしていけるだけの蓄えはある。だから心配しなくていい、というつもりだったんだ。
けれどそう言った後、彼の顔は険しくなる一方だった。さっきから一体何が悪いのかわからない。すっかり面喰うオレに向かって、彼は小さく、それでもはっきりと言った。
嫌です、と。
「カカシさん、オレはねアンタのその嫌味なくらい整った顔も、ムカつくほど器用に動く指も、無駄に長い脚も、小憎らしいくらい引き締まった身体も、悔しくなるほど良い声も、全部好きなんです。だから、そんなの受け取るのは嫌だ。・・・でも、アンタが帰るのがオレのところじゃないのも嫌だ」
彼がオレをひた、と見据える。その瞳は挑むような、また非常に切迫した雰囲気を湛えて、オレを映す。
「だから、勝手に死ぬな。いつでもオレのことを考えろ。アンタにはオレが居るんだから、ひとりにすんな・・・!」
一気に捲し立てるように言うと、彼は肩で大きく息をする。
いつの間にか顔全体が真っ赤に染まっていた。それを子供みたいだと思ったところで不意に、そのまま泣き出すんじゃないか、とも思った。
それでも、彼は泣かなかった。何かを訴えるような眼差しで以て、まっすぐにオレを見るばかりだった。
しかしそこで漸く、オレも気が付いた。
オレの身体はもう自分ひとりのものではない、ということに。
だからどこかで勝手に怪我して勝手に野垂れ死んで、とは出来ないのだ。彼が居るから。オレの身体は彼のものでもあるのだ、これからは。
自分でも鈍いと思うけど、今迄考えたことがなかったんだから仕方ない。それに彼がこんな風に思ってくれているのもちっとも知らなかった。
彼はなかなか思いを言葉にしない。だからオレはこんな状況なのに、彼に愛されていると知れて嬉しいとも感じた。
一緒になるってこういうことか、などとどこかしみじみと思いながら。
「うん、頑張る」
この言葉に、彼はますます顔を険しくした。
そんな彼に向かって、オレは正直な思いを告げる。
「絶対とは言えないけど、死にそうになっても精一杯生き延びようと努力するし、アンタが好きなオレの身体ひとつも欠けないようになるべく五体満足で帰るようにする。だから貰ってよ。オレがいつでもアンタのところに帰れるように」
オレの言葉に、彼は「アンタは狡い」とどこか悔しそうに零した後。
「・・・でも、本当に頑張って下さいよ?」
オレの手からドッグタグを受け取ってくれた。そんな彼に、オレがいつも使っている銀のチェーンを渡して今すぐ着けてくれるようにせがむ。
すると「仕方ないですねえ」と呆れたように言いつつも、すぐにドッグタグをチェーンに通して身に付けてくれた。
そして、一言。
「なんだか、アンタに捕まえられた気分かも」




その後、ふたりして婚姻届を出しに行く前に、オレは新しいチェーンを買った。それにドッグタグを通し、彼にオレの首へ付けて貰う。
これでオレも彼に捕まったも同然だ。
その後、婚姻届を役所に提出し、オレ達は正式に結ばれた。
ただ、ふたりの胸に同じドッグタグが付いているのを知るのは、今はまだオレ達だけだ。









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