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続いてゆく日々のために

15




五月二十七日

色んな意味で満ち足りた誕生日を過ごした所為か、一度目が覚めても布団から出るのが酷く億劫に思えた。
普段なら彼是煩く言いそうな彼も起きる気配がなく、このまま二度寝を決め込んでも怒られることはなさそうだ。どうせなら、と彼にくっついて、その体温を感じながらとろとろと心地良く微睡む。
そんなことをしている内に、気付けば昼をとうに過ぎていた。
漸く起き出した彼も、時計を何度も見返して確認するほどにビックリしている様子だった。
それでも、いつもは出来ない贅沢な休日の過ごし方に、今日が特別な昨日の続きのようにも思えてくる。寝室のカーテンを開けば、窓の外が雲ひとつない快晴だったのもその思いに拍車を掛ける。自然と、心が浮き立つ。
但し、何気なく覗いた冷蔵庫の中には碌なものが入っていなかった。
そういえば昨日、仕事帰りに買い物をして帰るつもりでいたのを今更のように思い出す。
そして居間では彼が腕組みをしながら、昨夜から卓袱台の上に置かれたままのバケツを眺めてオレに言ちる。

「・・・このままだと流石に可哀想じゃないですか?」

無造作に、ただそこに突っ込まれただけの花の束を目にしたオレも全く同じ意見だったので、買い出しついでに花瓶も見に行くことになった。
部屋の窓から眺めていたので知ってはいたが、一歩部屋から出てみれば空はどこまでも青く晴れ渡っていた。そしてそれは正しく五月晴れと呼ぶに相応しい天気だった。
本来なら心躍る筈の陽気を前に、しかしオレはどうしても怯まずにいられない。最近、天気の良い日は決まって日光が目に突き刺さってくるように感じられるからだ。勿論、突き刺さる、というくらいなので、痛覚もある。
心持ち目を眇め、地面に視線を向ける。光に慣れればマシになるのだが、それまでは顔が上げられない。どうせなら少し前に作った色付きの眼鏡を持ってくれば良かったと後悔する。
けれど、そんなオレの様子に彼がしきりと「大丈夫?」と訊ねてくるので「ちょっと眩しいだけです」と適当に誤魔化しておく。
過度に心配症のきらいのある彼だ、変なことを口走ればそのままアパートへ連れ帰られるのは目に見えている。折角の休日を、室内で終わらせてしまうのは惜しい。
アパートから商店街へと向かう途中、緑の匂いが感じられるような爽やかな風が吹き抜けて行く。
それにつられるように目線を上げれば、視界の中に歴代の火影様の顔を模った顔岩が映り込む。
火影様の顔岩の上には里が一望出来る展望台がある。アカデミーでは遠足の他、課外授業の一環として里の様子や周囲の環境、また里上空に張られた結界による防衛システムの学習を展望台で行うこともある。
・・・まあ実際、子供達は学習よりも、単純に自分達の住むところを上から眺める、っていうのに一番興味を持って喜ぶのだけれど。
今日みたいに天気が良ければ、里のずっと遠くまで見渡せるだろう。展望台というだけあって、眺めはとても良いのだ。
そういえば、最近全然行ってないな。
そんなことを考えていたら、いつしか隣を歩いている彼に火影様の顔岩まで行きませんか、と声を掛けていた。
「えっ、顔岩?」
「そうです。あそこの上にある展望台、今日みたく日ならずっと遠くまで見渡せるんですよ。里外れの森や山なんかも見えてそれがなかなか壮観なんです。本当、すごいんですよ」
「へえ、そうなんだ」
「ふたりで行ったことって今迄なかったですよね」
「うん、ないかも」
なら行きましょうよ、とオレが口にする前に「じゃあ行きますか」と気負わない調子で彼が言う。それにオレはすっかり気を良くする。
そのままオレ達は商店街を通り抜け、まっすぐ展望台へと向かった。
しかしながらこちらが誘ったにも関わらず、展望台に続く階段でオレは何度となく段差に足を引っ掛け、階段を踏み外しそうになってしまった。
その度に彼が助けてくれたので大事には至らなかったが、相応に肝は冷えた。単に足腰が弱っているのか、もしくは足許を見ているつもりでもしっかり見えていないのか。どちらにせよ、情けないことに変わりはない。
「ダメですねぇ。まだ酒が残っているのかな」
鼻の傷を擦りつつ、笑って誤魔化そうとしたけれど、彼の表情はどこか険しい。その顔のまま、何かを考え込む素振りをみせるのにオレは内心で焦らずにいられない。もしかすると、先程のことで彼の心配症のスイッチが入ったのでは、と思ったのだ。
「・・・どうかしたんですか?」
おずおずと、伺いを立てるように訊ねれば、彼は素っ気ない口調で「なんでもないです」と言う。けれど、その小難しそうにも映る、険しい表情に変化はない。
でも折角ここまで来たのに、最後まで上らず来た道を戻るのは寂しい。
なんて考えていたら、いつの間にか彼に手を取られていた。いきなり何だ、と訝る思いで隣を見遣ったけれど、彼からは一言。

「危ないから」

そう言われてしまえば、返す言葉もない。なんとなく気拙い空気が流れる中、彼に手を取られたまま展望台まで上がる。
展望台には、誰の姿もなかった。
完全な貸し切り状態を前に、すっかり気分が持ち直ったオレは随分単純かもしれない。
それでも彼の手を引っ張るようにして、特等席である柵の前まで連れて行く。ここからの見晴らしが一番良いのだ。
開けた眼前に、里の風景が広がる。隣に並び立つ彼から小さく声が漏れたのがオレにもわかった。
「ここからの眺め、最高でしょう!」
妙に得意な心持ちで告げたオレに、彼は少し驚いた顔した。その後で微苦笑といった風に目許が緩められる。もし口布がなければ、口元だって同じように緩んでいたのがわかったかもしれない。
もしかして子供染みていると思われたのだろうか。
彼のことだ、多分・・・いやきっと絶対そうに違いない。
どうせ子供染みてますよ、なんて悪態を吐いてやりたくなったが、今更かとも思う。寧ろここで食いついて、やっぱり子供染みているとしみじみ実感されるのも癪だ。
それ以上オレは余計なことを言わず、口を閉ざして里の風景を眺める。
頭上から降り注ぐ日差しの眩しさに、目の上に手のひらを庇のように翳して彼方此方を眺める内、ふと気付かされる。眼前に広がる風景の中で、オレの目では見通せないところがあるのを。
里の何処に何があってどういう並びになっている、というのはここで今迄何度となく里を眺めて記憶に残っているというのに、それらが視界の中でぼんやりとぼやけてまるで蜃気楼のように輪郭が捉えられなかった。
酷い箇所になると周囲の色彩が皆混じり合い、個々の凹凸を失って何の形も成さないまま、ただそこにのっぺりと広がっているだけに映った。遠方になればなるほど、その状態が顕著になる。そこにある筈の風景が、一切風景として捉えられない。
最初こそ日差しに目が眩んでいるのかと、目を眇め、瞬き、そして一旦瞼を閉じてまた開く、ということをしたが、眼前の風景に変化はなかった。以前は、遠方まではっきりと見えていた筈なのに。
―――・・見えなくなってきているんだな、と思った。
少しずつ視力が衰え始めているのが実感として湧いてくる。
仕方のないことだとは思う。思うのだけれど。
でも、一体いつまでオレの目は見えているのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたら、掴まれた手に小さく痛みが走った。どうやら、彼が手のひらに力を籠めたらしい。
「痛いですよ」
そう言ってはみたが、彼はまるで聞こえていないかのように一切力を緩めなかった。見遣った先にある彼の横顔は強張り、酷く思い詰めているようにも映った。
もしかして目の状態に気付かれたんだろうか。
僅かに緊張したが、彼は何も言わないまま。
そしてオレも掛ける言葉を見付けられないまま、暫し彼と共に曖昧にぼやけた里の風景を眺めていた。
その一方で、奇妙に胸が騒ぐのを、はっきりと感じていた。







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