PREV | NEXT |

続いてゆく日々のために

16




五月二十八日

今日はオレだけ休みで、ひとり部屋に居る。
昨日と同じく今日も良い天気だった。
けれど浮き立つような心持ちは少しも湧かず、胸が塞いで仕方ない。
昨日の、彼の様子がオレの中でずっと引っ掛かっていた。
あれからアパートに帰っても、彼はどこかおかしいままだったのだ。
ぼんやりと何事かを考えている様子で、常に持ち歩いている愛読書を広げてはいたけれど、それを読んでいる風ではなかった。
こちらから話し掛けても言葉少なで、上の空。それに焦れて「何かありましたか」と訊ねても、返答は一言。
「なんでもないです」
どれだけ長く傍に居ても、そういう時の彼に掛ける言葉をオレはいつも失ってしまう。
昼間、展望台で彼が何を思っていたのか、推し量る術はない。それでもオレのことを考えていただろうことは、わかる。時折、彼の視線がこちらに向くのを感じることがあったから。
だから、考えてしまう。
オレの目が見えなくなってきているのを、彼はどう思っているのだろう。

・・・って、あー嫌だイヤだいやだッ!

こんな時に部屋でじっとしていると、碌でもないことばかり頭に浮かんできてしまうからいけない。今更考えたって仕方がないと自分でもわかっているのに。
ぶんぶんと大きく頭を振って、余計な思考を全部追い遣る。ついでにばちん、と両手で頬を張ってみる。
よし、動こう。
幸か不幸か、やることはある。掃除に洗濯、ついでに布団干し。最近お互いに忙しくて家事が溜まりに溜まっていた。天気は良いし、それらを片付けるのにはうってつけだろう。
大量の衣類を詰め込んだ洗濯機を回している間に布団を干す。眩しい日差しは目を眇めて俯くことでどうにか遣り過した。
そして居間のガラスサッシを全開にして、押入れの隅に突っ込まれた年代ものの掃除機を取り出す。
スイッチを入れた瞬間、ごうごうと騒々しい唸りを上げるそれを畳の上に滑らせているところでふと、少し前に彼と畳の掃除の仕方で諍ったことを思い出した。
確か箒がいいんだったよなと思いはしたが、結局まあいいかと流す。
どうしても箒で掃きたい人間がそうすればいいのであって、オレまでそれに倣う必要はないと思うからだ。大体茶殻なんてそうそうないし、箒で掃いても本当に綺麗になったかどうか疑問だし、それより何より面倒だし。
そんなことを考えていると、『ねえねえねえ、ちょいとちょいと、終わっちゃいますよう』と呼び掛けでもするように洗濯機のブザーがのびやかに三度鳴る。
型の古い洗濯機のブザーは新しいものと比べて味のある音がする。が、彼は「いい加減買い換えましょうよ」と言って憚らない。洗濯物を大量に入れ過ぎると時々回らなくなる為だ。でもオレはこれが気に入っているので壊れるまで使おうと思っている。掃除機だってそうだ。何でも、ものは大事にするべきなのだ。簡単に使い捨てるのは忍びない。
・・・ものを捨てられない所為で、今迄どれほど彼に怒られてきたとしても、だ。
自分の考えに満足してひとりうんうんと頷きながら、掃除機を片付ける。
既に掃除は一通り終わっていて、ブザーに呼ばれてしまえばこちらの気分も洗濯へと移ってしまう。
洗濯槽の中で捩れた上にみっちりと絡みつく洗濯物を籠に移し替える。
水気を含んでずしりと重くこんもりと山になった籠を片手に、掃除したばかりの部屋を真直ぐではなく敢えて斜めに突っ切る。開け放たれたサッシへの最短のルートは真直ぐではなく斜めなのだ。
サッシの傍に置きっぱなしになっているサンダルをつっかけて、ベランダに出る。
するとうっかり視界に入った空の眩しさに自然と目は細まって、ついでに顔も顰まった。昨日もそうだったけれど、自分の目の状態を完全に失念することがオレにはままある。
色付きの眼鏡を部屋の中に取りに戻るのも考えたが、面倒臭さが先に立つ。目がちかちかするのを感じながら、手に持っていた籠をベランダのコンクリートの上に置いた。そして眇めた目のまま竿に洗濯物を干していく。
アンダー、下履き、脚絆、バスタオル。
パジャマに、部屋着のジャージに、Tシャツに。
どれだけ見ても、当たり前のようにふたり分ある。下着だって、彼がボクサー派でオレがトランクス派という違いはあれど、ふたり分ある。
それが青空の下、一緒になって風にはためいている。時に寄り添うように、時に絡まるようにしながら、そこに在る。
―――ふと、ひとりじゃないんだな、と思った。
オレはひとりじゃない。
これからは、ずっとふたりなんだ。
それに、こそばゆいような、気恥かしいような心持ちになる。
何を今更、と鼻の頭を擦りながら空になった籠を手に持ち、オレは部屋の中を振り返った。
出しぬけに、どくん、とひとつ心臓が鳴った。
目の前にある筈の部屋が、一面暗闇の中に沈んでいた。
そこには畳があって、部屋の隅に台に載ったテレビが置かれ、幾つもの染みが浮かぶ天井からは電灯がぶら下がり、先程掃除をしたから折り畳まれた卓袱台が邪魔にならないよう壁に立てかけてある筈、なのだ。
なのに暗くて。
暗くて、何も見えない。
どくん、どくん、と心臓が鳴る。
腹の底にひやりと冷たいものが溜まっていくのを感じる。
それでも暗闇は変わらず目の前に在る。
ぽっかりと、でも確かな密度で以てそこに広がっている。
どくん、どくん、どくん。
けたたましくなる心臓の音に同調するように頭の中身がぐらぐらと揺れる。気持ちが悪い。吐きそうだ。
ぎゅっと目を閉じて、荒く息を吐く。
つ、と冷たい汗が背中を伝って落ちていく。
最早頭だけではなく、身体もぐらぐらと激しく揺れているような感覚。
マズイ、このままでは倒れる。
反射的に開いた瞼の先。目に映り込んだものに、オレの周りを流れる時間が一瞬、止まったように思えた。
畳に、テレビに、電灯に、卓袱台に。背の低い本棚と、その上に載る彼が持ち込んだ観葉植物。細々したものがいろいろ収められた豆箪笥の隣に、花束を飾った大ぶりの花瓶。
部屋の光景が、戻ってきていた。
何もかも、見える。どこに何があるかも、わかる。
不意に腕から力が抜けて、持っていた籠がコンクリートの上に転がった。ついでに身体からも力がぬけて、へなへなとその場に座り込む。それでも心臓は未だ煩く鳴り続けている。
・・・彼が居なくて本当に良かったと思う。もし傍に居たらみっともなく取り縋っていたかもしれない。下手をすると、動揺のままに酷く喚き散らしていたかもしれなかった。

「なっさけねぇの」

声に出したら、妙に笑えてきた。
覚悟は出来ていた筈だった。
いつそうなっても大丈夫だとずっと思っていた。
彼にだって偉そうになんだかんだと言っていたのに、結局は自分が一番、覚悟が出来ていないのだ。
そして一番、見えなくなることに怯えているのだ。
オレが笑う傍で、明るい空と眩しい日差しの下、洗濯物が風にはためいている。
ふたり分の洗濯物を見上げながらオレは、は、と短く息を吐いていた。
こんなこと、言えやしないじゃないか。
誰よりオレを心配してくれている彼には絶対、言えやしない。









PREV | NEXT |

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system