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続いてゆく日々のために

18




五月三十日

「・・・うみのさん、どうかしましたか?」

掛けられた言葉に、方々に散っていた意識がひとつ処に戻ってくる。
目の前に居る先生は少し困ったような、戸惑った顔でオレを見ていた。どうやら検査の結果を聞いている内に、自分の世界に入り込んでしまっていたらしい。
「すいません、ちょっとぼーっとしてました」
正直に告げれば、先生は先程よりもっと困ったような顔でオレを見た。それを見ている内になんだかとても申し訳ない気分になったので、もう一度「すいません」と謝る。そうしたら先生はますます困ったような顔つきになった。そしてオレの方もますます申し訳ない気分になって、でもここで謝ると先生はまた更に困るのだろうと思いながら、口を噤んでその顔を眺めている。
検査の結果、オレの目は急激な視力低下と、強度の視野狭窄、ついでに羞明の症状も出始めているとのことだった。
簡単に言えば、視力が下がって視野が狭まり、ちょっとした光が異様に眩しく感じる、という状態。病状が進んでより失明の状態に近付きつつあるらしい。自覚症状も多分にあるから、ああやっぱりな、と思うのが半分と、もうそこまできたか、と思うのが半分と。
「この状態がずっと続くかもしれませんし、急激に悪化するかもしれない。今の段階ではどうなるともはっきりとは言えないのです」
先生の言葉を、オレはしんと静まった心持ちで聞く。
わかっている、これは仕方のないことなのだ。特効薬もなければ治療のしようもない、オレの目の病はそういう類のものなのだから。
最初からわかっていたことだ。オレだって自分では納得していると、ずっと思っていたのだから。

長く、見えているといいね。

不意に、彼の言葉が耳に蘇る。そう言った彼は一体どんな顔をしていたのだろう。少しも思い出せないのが、今は酷くもどかしい。
オレは、ますます悪化してきている目のことを、未だ彼には言い出せずにいた。
黙っていることに対して後ろめたい心も確かにある。けれどあの暗闇を覗き見た瞬間の、全身が凍りつく感覚を一体どう伝えればいいのだろう。
そんな思いに拍車をかけるように、彼は最近どこか塞ぎ込むような、思い詰めた顔をしていることが増えた。出先から帰った時、ご飯の用意をしている時、ひとりでぼんやりと窓の外を眺めている時。ふとした瞬間、オレはそれに気付く。そして、無性に訊ねたくなるのだ。

―――・・オレは、アンタの傍に居てもいいんですか?

けれど、実際に訊ねられはしない。口にした瞬間、そこに在る全てががらがらと音を立てて瓦解していくような心持ちがするからだ。
手放したくない。失いたくない。
オレは、あの人も、あの人がいる空間も皆大切で、かけがえのないものだと知っている。それでどれだけ彼に負担を強いることになっても、決して失いたくないと思っている。
オレは狡くて自分勝手で、それにとても卑怯だ。
「・・・さん、うみのさん・・・、イルカくん?」
わざわざ言い直してオレを呼ぶ声に、下方を彷徨っていた視線を上げる。すると先生がオレを真直ぐに見ていた。どこか心配するような顔つきなのは、オレが再び自分の世界に浸っていた所為らしい。
「ああ、すいません。なんかまたぼーっとしてたみたいで・・・」
取り繕うように言えば、先生はオレから視線を逸らさないまま静かに言った。
「大丈夫、ですか?」
ほんの、短い言葉だった。
けれどその短い中に、労りや心配や気遣いや慈しみや、それ以外の深い思いまでもが全て詰め込まれているように、オレには感じられた。
先生は時折、オレの何もかもを見透かしているのではないかと思う。
「・・・ねえ、先生」
「はい?」
「オレ、考えるんです。このまま目が見えなくなったらどうなるんだろうって。・・・今更馬鹿みたいだって自分でも思うんです。それでも、見えなくなったら、って思うと怖くて仕方ない」
今だって、世界が暗闇の中に沈むことを考えただけで身体に震えが走る。オレは無意識の内に、膝の上に置いていた拳をきつく握り締めていた。
「でも何より怖いのは、目の見えなくなったオレをカカシさんがどう思うのか、なんです。目が見えなくなったら、オレは迷惑を掛けるだけ掛けてあの人に何もしてあげられない。その内、オレの存在が疎ましくなって、こんな筈じゃなかったと一緒になったのを後悔するんじゃないかって。愛想を尽かして、オレから離れてしまうんじゃないかって」
どうしても考えてしまう。優しい彼のことだから口に出さないだけで、本当はずっとそんなことを考えているのではないかと。塞ぎ込んだ様子を目にする度に、不安が頭を擡げるのはその所為だ。オレは彼に対して消えない負い目を抱えている。これから一生、消えないだろう負い目を。
そんなオレの言葉を黙って聞いていた先生だったが、ある時ぽつりと言った。
「本当に、そうでしょうか」
気負いのない口調だった。
改めてその顔を見遣ったオレに、先生は変わらぬ調子で続ける。
「カカシくんは、そんなことで君を見捨てるような人でしょうか。君が何も出来ないからと、迷惑に思うような人でしょうか」
「それは・・・」
オレにもわからない。勿論、信じたいという心はある。それでも不安で仕方がないのだ。
口を噤んだオレに先生は、「では、たとえば、ですが」と話題を変えるように言う。
「たとえばもし、今カカシくんが急に・・・そうですね、忍としてやっていけない身体になったとしましょう」
「忍としてやっていけない身体、ですか?」
「そうです。怪我で五体満足でなくなったのかもしれませんし、精神に異常をきたしたのかもしれない。まともに口もきけず、意志の疎通が図れない状態になったとします。そうなった時、イルカくん、君ならどうしますか。そんな人間の世話は迷惑だからと離れようと思いますか」
「・・・・・・思いません」
そんな状態になった彼を放っておける訳がないじゃないか。
気付くと、オレは彼に貰ったドッグタグを服の上から握り締めていた。
これをくれた時、彼はいつでもオレの元に帰ってくると言ったのだ。
だから、オレだって。
「オレは何があっても、ずっとあの人の傍に居ます」
これが、ドッグタグを受け取ったオレなりの決意。迷いはなかった。
オレの答えに先生は満足そうに頷いてみせた後。
「ならばイルカくん、君がすべきことはただひとつの筈ですよ」
「すべきこと・・・?」
「ええ。君がすべきことは・・・カカシくんを信じることです。カカシくんも、きっと今の君と同じ気持ちでいますから。彼がそういう人であると、イルカくんが一番わかっているでしょう?だからもっと彼を信じておあげなさい。それこそ彼に怒られてしまいますよ」
先生の言葉に、ことんと音を立てて胸の中に小さな丸い塊が落ちてくるのを感じた。それは彼方此方をころころと軽やかに転がりながら、歪にゆがんで蟠る様々な思いをやわらかく解していく。
なんだ、そうなのか。彼も同じように思ってくれているのか。
それに自然と胸に温かいものが溢れて、胸裏を一杯に満たす。つられたように視界がじわりと滲み出していく。
―――・・信じよう、彼を。オレは信じていよう。
これからも、ずっと。
眦に溜まるものを瞬きで散らせながら、どうしたって震えてしまう声でオレは先生に告げる。

「・・・ありがとうございます」
「どういたしまして」

そんな先生の顔に浮かぶ表情は、どこまでも優しいものだった。







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