モドル | ススム

● やっぱり犬がすき? ---  ●




「おい、顔色悪いけど大丈夫か?」
イルカが職員室に着いて早々、隣の席に座る同僚のモズに顔を覗き込まれた。
余程顔色が悪いのだろうか、モズの顔には案じるような気配がある。
「あー、ちょっと二日酔いで」
「なんだよ、珍しいな」
「ちょっと呑み過ぎちまってさ」
「お前も歳だな」
「うるせぇ」
イルカは肘でモズの脇腹を軽く押す。それに「いてーよ」とさして痛くもなさそうな声が返ってくる。
モズはイルカと同期で歳も近く、同僚として、また気の置けない友人として公私共に親しくしている相手だった。
しかしながら、呑み過ぎたお陰でとんでもないことになったのは黙っておいた。それを口にしたが最後、気のいいモズがその場で凍り付くのは目に見えている。やはりモズにとっても、カカシは雲の上の人物なのだ。
「二日酔いなら、帰りに一杯やるか?付き合うぜ」
イルカの思惑に僅かにも気付いた風もなく、イルカに向かって杯を傾ける仕草を見せる。
酒好きを自認するモズは二日酔いになるまで呑んでも、次の日には迎え酒と称してまた懲りずに呑みに行くような人種だった。それにイルカが付き合うことも多いのだが、今日ばかりはそんな気にもならない。
「いや、遠慮しとく。ちょっと用事もあるし」
「そっか。あ、そういや今日の演習のコースなんだけどさ」
仕事の話を始めたモズにイルカも頭を仕事モードに切り替える。その後は最も考えなくてはならないことを頭から追い出すようにして、仕事に没頭した。
しかしながら、そんな安寧な時間も終わりを告げることになる。
アカデミーでの授業の後、兼任している受付所のシフトも終わらせれば、後はもうイルカにするべきことは残っていなかった。
本来ならば、それは大変喜ばしい筈なのだ。後は帰ればいいだけなのだから。
しかしながら、今日のイルカの心は非常に重たいもので溢れていた。
何故なら、今から帰るのはカカシのマンション。それだけではなく、イルカはそこで犬として過ごさねばならない。
妙な緊張感を抱えてイルカがカカシの部屋を訪ねると、チャイムを鳴らす前に玄関のドアが開いた。その中から素顔のカカシが迎えに出てくるのに、イルカは大いに驚かされる。
「待っててもなかなか入ってこようとしないから」
にこやかな笑みを湛えたまま告げられた言葉に、イルカは気恥ずかしいものを覚えていた。
暫くドアの前で逡巡していたのをカカシは感じ取っていたらしい。
「さ、入って」
カカシに腕を掴まれ、玄関の中に足を踏み入れる。
するとすぐにイルカの耳は犬のものになり、尻の辺りにはもこもことした毛の感触が生じた。覚悟していたとはいえ、再びそのような格好になって落胆のあまり漏らした声も「・・・わうん」と犬のもの。
「どうしたの、元気がないね。仕事で疲れた?」
そう言って至近距離で顔を覗き込まれる。何ものにも隠されない端正な顔立ちが傍にあるというだけで緊張し、イルカの心臓はおかしいくらいに早く脈を打つ。頬が勝手に熱を持つのもわかる。昨夜は酒が入っており、朝は様々なことで頭が飽和状態だった所為かそこまで気が回らなかったが、カカシはイルカにとって元々そういう相手なのだ。
しかしながら、少し距離を取ろうと後退りしかけたイルカを、逆にカカシは引き寄せる。
「なんで逃げようとするの?」
「わうわうん(だってなんか顔近いですし)!」
犬語で必死に言い募るイルカに、カカシはにっこりと笑いかけて一言。
「約束忘れてないよね?」
それに、イルカはぐうの音も出なくなる。カカシの言うことには必ず従う。確かに、そう約束したのだ。
完全に押し黙ったイルカは、「いい子」と頭を撫でられていた。そうされるとどうにも複雑な感情が湧かないでもないが、大人しくされるがままになる。そんなイルカの様子に目を細めていたカカシは。
「御飯、ちゃんと出来てるから。一緒に食べようね」
そう言うと、イルカの足元に傅く。朝と同じようにイルカの靴を脱がせに掛かっているのだ。
それをどこか遠くの光景のように眺めながら、イルカの頭の中は別の思惑で一杯だった。


―――・・・御飯ってまさか、ドックフードじゃないだろうな?


先程とは違う意味で緊張しながらカカシに手を引かれて行った部屋で、イルカは思わず目を瞠った。
全体にモノトーンで統一された室内で、そこに収まるべくして収まったと思わせるデザイン性の強い家具の数々。それらはシックでありながら同時に主のセンスの良さをも窺わせた。
その中で特に目を惹く、存在感のある皮貼りの大きなソファーとガラスと黒のフレームが組み合わされたローテーブル。テーブルの上には、見た目にも味のある食器に盛られた料理が並べられていた。イカと里芋の煮物に、鮭の焼き浸しと青菜のおひたし、そして豆腐の卵とじ。出来たてらしく、料理からは湯気が上っている。
カカシはイルカの鞄を預かり、ベストを脱がせてからソファへと座らせた。そしてイルカを残してどこかへと消える。
室内に一人きりにされたイルカは落ち着かず、忙しなく室内を見回す。雑誌か何かに出てくるような、イルカの住む安普請なアパートとはまるで違う世界に戸惑わずにはいられない。腰を下ろすソファの上質な座り心地と相俟って、改めて己が場違いな人間であると感じたイルカは思わずフローリングの床へと座り直していた。
御飯と味噌汁を載せたお盆を手にして部屋に戻ってきたカカシが、その姿を目にしてふと笑みを零す。
「ソファに座ればいいのに」
「わうん(この方が落ち着くんで)・・・」
なれないものは、どうにも居心地が悪くて仕方ない。そんなイルカの心を知ってか知らずか、カカシはそれ以上のことは言わなかった。
「オレが作ったから、味の保障はしないけど」
御飯と味噌汁をテーブルの上に並べるカカシが照れ臭そうに笑う。どうやら目の前にある食事をイルカも相伴に預かれるらしい。
安堵感からイルカの顔には満面の笑みが浮かんでいた。取り敢えずの不安が消えれば、目の前にあるものがとても美味しそうに見えてくる。
ここではじめて、イルカは己が随分腹を減らしていることに気付いた。
「じゃあ、冷めない内に食べましょうか」
そう言うと、何故かカカシはイルカの真横を陣取った。
そしてテーブル上の箸を取るのに倣って、イルカも箸を取ろうとして―――それがテーブルに置かれていないのを知る。
「わん(箸が欲しいんですけど)」
カカシの持つ箸を指差しながら告げれば、カカシはにっこり笑って返す。
「イルカ先生は犬なんだから、必要ないでしょう?」
イルカの眉間には自然と皺が寄っていた。
箸を使わずに食べるということは、暗に犬食いをしろと言っているのだろうか。カカシのことだから、きっと手掴みで食べてもアウトの筈。
そう思いながら、並べられた料理を眺める。
見たところ一口サイズで統一された惣菜の類に、犬食いでもどうにか食べられないことはないかも、とイルカは覚悟を決める。
多少の抵抗を感じながらも、おずおずと料理の盛られた皿に顔を近付けていたところで。
「イルカ先生、はいあーん」
イルカの目の前にしっかりと醤油のしみこんでいそうな里芋が、カカシの箸によって差し出される。
「・・・わうん(なんでしょうか)?」
「オレが食べさせてあげますよ」
カカシはそう言うと、イルカの口元に更に里芋を近付ける。イルカは面食らいながらも、里芋とカカシの顔とを交互に見つめてみる。
しかしカカシは微笑むばかりで箸を下ろそうとはしてくれない。イルカが食べるまで根気強く待つつもりなのだろうか。


・・・カカシ先生ならやりそうだ。


そう思ったイルカは、仕方なしに口を開いて里芋を受け入れた。
醤油の甘辛い味がしっかりしみた里芋を咀嚼していると、カカシは満面の笑みで「いい子だね」と言い、自らも同じものを取って口に運んでいる。
「わうわん(ひとりで食べられますよ)?」
勿論、その言葉も「約束でしょ」とあっさり返され、今度は鮭の焼き浸しを一切れ口の前まで持ってこられる。それを口内に納めながらも、イルカの心中は複雑なもので溢れる。
それでも、結局最後までカカシの手によって食事は進められることになったのだった。





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