モドル | ススム

● やっぱり犬がすき? ---  ●




カカシの手による食事がどうにか終了した後も、イルカに対する犬扱いは一向に解かれる気配を見せなかった。
カカシが食事の片付けをする間、イルカは促されるままにフローリングの床から皮貼りのソファーへと移動させられる。
目前の薄型大画面の液晶テレビに映し出される映像をぼんやりと眺めながら、気疲れにそっと溜息を吐くのが精いっぱい。
相変わらずの上質な座り心地も、到底イルカに安息を齎してはくれなさそうだった。
もぞもぞと居心地も悪く尻を動かしていればその内、片付けを終えたと思しきカカシが部屋へと戻ってくる。そして、何の迷いもなくイルカのすぐ隣に腰を下ろした。
肩同士が触れ合う感覚に、イルカは慌てて身体ごとソファーの隅に避難する。
こうして至近距離にカカシが居る、ということにどうしても慣れないのだ。どんな顔をすればいいのかもわからず、何より緊張してしまう。
大きな身体を出来る限り小さくして距離を取っていれば、隣からふっと息の漏れる気配がして、「こっちにおいで」と呼ばれる。
それにも聞こえないふりで身を硬くするイルカの腰に、いきなり回された腕。そのまま強引に引き寄せられるのに驚いて、咄嗟に身体が逃げを打つ。しかしイルカの抵抗などものともせず、易々とカカシの傍へ引き戻される。
それでも諦め悪くじたばたと?いていれば、笑いの混じる声に窘められた。
「こーら、暴れないの。これもスキンシップなんだから」
腰に腕を回したまま、カカシがイルカの肩に頭を載せる。それにぎくりと固まったイルカに、カカシは満足そうに小さく鼻を鳴らす。
その後、何事もないようにテレビを観続けるカカシの腕に囲われながら、イルカの心臓はずっと煩く鳴っていた。
カカシの顔が近い。頬に触れる髪のやわらかさも、抱き寄せられる腕の逞しさも、感じる体温でさえ、近い。
時折目が合うと、やわらかく微笑まれる。女だけでなく男の自分ですらうっかり見惚れてしまうそれを一番近くでイルカは見ている。
これはある意味役得かも、と思ったのも束の間、「よしよし」と頭を撫でられるのに辟易する。結局、イルカは犬としてしか見られていないのだ。
その事実に落胆するイルカになど気付かない様子のカカシが、あくまで軽い調子で言う。
「そろそろ風呂を沸かしましょうか」
この言葉に、イルカは目を丸くする。そろそろ自分のアパートに帰る算段を頭の中で組み立てていたのだ。
「やだなぁ、イルカ先生はオレの犬なんだからウチで暮すのは当然でしょ?」
カカシは相変らずイルカが見惚れるほどの笑みを顔に浮かべながら、事も無げに告げる。
確かに本当の犬ならそれでいいのだろうが、イルカはれっきとした人間なのだ。
ひとつ屋根の下で共に暮すにしても、そういうことはきちんと筋を通してから決めるべきであって、なあなあで済ますのは拙いだろう。否、拙いに決まっている。
イルカが生真面目にそう考える一方、カカシはといえば気安い調子を崩しはしない。
「心配しなくても、着替えなんかもちゃんと用意してありますから大丈夫ですよ」
「わうん(そういうことじゃなくて)!」
「約束、したよね?」
最強の決め台詞を持ち出されれば、それ以上抗う術はない。口籠るイルカの頭をぽんぽんと軽く叩くと、カカシは腰から腕を離して立ち上がる。そしてバスルームと思しき場所へと消えていく後姿を為す術なく見送ってから、イルカはがっくりと項垂れる。
恋人同士ならまだしも、犬扱いする相手と暮すなど普通の感覚ならば有り得ないことだ。しかもどんなに理不尽でもイルカには拒否権がないときている。
それ以前に、服を着せられるのだって、御飯を食べさせられるのだって、立派な大人がされることではない。イルカにとっては恥しいことこの上ないというのに。
なんであんな約束しちゃったんだろう、と今朝からもう何度目になるともしれない後悔を始めたイルカの脳裏に、ふと不吉な予感が過る。


・・・まさか風呂まで一緒、ってのはない、よな?


しかし朝からの一連の流れにおいて、その可能性は非常に高そうだった。
昨夜から朝の段階で既に裸を晒しあっていたとはいえ、それとこれとは話が別。流石に素面での裸の付き合いは心の準備が出来ない。正直、カカシに己の裸体を見られると考えただけで平静ではいられないのだ。意識していない相手ならまだしも、しっかりばっちり好意を抱く相手である。きっと居た堪れなくなるに違いない。
そこまで考えて、風呂を沸かして戻って来たカカシにひとりで入りたいという旨を犬語と共に身振り手振り付きでイルカは必死に訴える。
「わんわんわおおんっ(オレ頭も身体も自分で洗えますし、湯船にだって浸かれます、だからひとりで入らせてくださいっ)!」
「あ、そっか。イルカ先生ひとりでお風呂っていうのは拙いですね。オレってダメだなぁ。すいませんイルカ先生、じゃあ一緒に」
どうやら自ら墓穴を掘ったらしい。その事実に気付いたイルカは更に慌てふためきながら、ダメじゃないです、一人がいいんです!と必死に犬語で以て伝えようとしたのだが。
「や・く・そ・く」
どこか悪戯っぽく言われ、半ば強引にバスルームへと連れ込まれる。
勿論、服も自分が脱がすといって聞かないカカシを説得出来る術をイルカは持たず、カカシによって次々と服を脱がされることとなる。
その手際の良さにこの人いやに慣れてるな、と明後日のことを思う間に、いつしかイルカは残すところパンツ一枚という状態にまで追い込まれていた。そしてカカシの手が最後の一枚に掛かった時、こうなれば矜持もプライドもあったものではないとばかりに開き直った。
すぐさま脱衣所の床に正座すると、イルカは犬耳とカカシに引っ張られたお陰で半分ずれ落ちた格好のパンツからはみ出た尻尾とをぷるぷる震わせながら床に頭を擦り付ける。そして出来るだけ憐れっぽい声を出してカカシに向かい合った。
「くうぅぅーん(本っ当に勘弁してください、それだけは無理ですっ)」
そんなイルカの姿をどう思ったのか、カカシは「そこまで言うなら」と、ひとりで風呂に入るのを認めてくれたのだ。
それに心の底からホッとしながら、現在イルカはひとりきりの湯船でゆうゆうと足を伸ばしていた。
イルカのアパートに付いているものと違い、カカシの部屋の風呂は広い。これなら二人で入っても問題なかったかも?と何気なく思ってから、すぐに羞恥で顔が熟れるのを感じた。そんなことをして、とても平静でいられる訳がないのに。
湯船に口元まで沈みながら大胆なことを考えた自分を罵っていると、風呂場の扉越しに「着替え、ここに置いておきますから」と声が掛かる。
「それと、ほどほどにしないと湯あたりしますよ。あまりにも上がってこなかったら、覗きますからね」
カカシの言葉に、イルカは湯から口元を出し「わん(大丈夫ですから)!」と返す。それは自分で思っていたより大きな声になった。
それに、扉の向こうでカカシの笑う気配がして、イルカはむっつりと口元を引き結んでいた。





「イルカ先生、よくあんなのに長いこと入ってられるね」
カカシに声を掛けられ、ひとりソファーに所在無く座っていたイルカは顔を上げた。
「オレ、普段シャワーだけで済ませるんだけど、イルカ先生の真似して湯船に浸かったらすぐのぼせそうになったよ」
首に掛かったタオルで無造作に髪を拭いながら、カカシが苦笑混じりに告げてくる。
先程まで風呂に入っていたカカシは、風呂上りで暑かったのか、パジャマの下だけを身に付けている状態だった。
無駄のない、すっきりと均等の取れた上半身にイルカは羨望の眼差しを向ける。忍ならば、理想とすべき身体。そこに、服を着用している時の線の細さはない。イルカとは違い、着痩せする性質なのだろう。
「・・・あんまりじっと見られると、恥しいんですが」
苦笑するカカシに、イルカはどれだけ不躾にカカシの身体を見ていたかに気付かされ、頬が熱を持つ。
「わんっ(すいませんっ)!」
慌てて頭を下げれば、カカシが今度はどこか楽しそうに笑いながらイルカの着ているパジャマを眺めて言う。
「それ、ちょっと長かったですねぇ」
カカシに借りたパジャマをイルカが着ると、身長はさして変わらないのに、袖と裾の部分がどうしても余るのだ。その辺りは体型の違いなのだろうが、不本意ながらイルカは袖と裾とを折って着用していた。
「明日ちゃんとしたの買ってきますから」
「わうん(そこまでしてもらわなくても)」
イルカが胸の前で大きく手を振るのに、カカシはふと目を細めて。
「オレがしてあげたいからいいんです」
やわらかく崩された表情を前に、収まりかけていた頬の熱が再び上がるような気がした。きっとこういうところが、女にうけるのだろう。
格好良くて、実力があるのに驕ったところもなく、少し強引だけれども、それでもとてもやさしい。


・・・ああ、やっぱりこの人が好きだ。


イルカは改めてそんなことを思う。たとえ犬扱いだとしても、こうして傍に居られて気に掛けて貰えるのを嬉しく思うほどに。
「さて、そろそろ寝ましょうか。イルカ先生は明日もアカデミーでしょう?」
カカシに言われて壁に掛っていた時計を見遣れば、既に日付を跨ぐ時間になっていた。イルカが頷くと、カカシはイルカの手を取ってソファーから立ち上がらせる。
そのまま歩き出したカカシに連れて行かれた先は、暗い部屋の中だった。先導するカカシが電気を点けると、そこは今朝方共に寝ていた寝室だというのがわかった。
改めて部屋の中に目を遣っていたイルカを、先にベッドへと上がったカカシが何の躊躇いもなくそこへ誘う。驚いたイルカは、掴まれていた手を反射的に引っぱっていた。
「どうしたの?」
カカシが不思議そうに訊ねてくる。
カカシはイルカを犬として見ているのだから、一緒に寝るということに何の問題も、ましてや躊躇いなどないのだろう。
しかし、イルカは違うのだ。慕わしい相手がすぐ傍に居る状況で、とても眠ることなど出来ないのは目に見えている。
カカシは、イルカが思うほどには意識をしていない。
その事実に改めて居た堪れないものを覚えながら、イルカは必死に言い募る。
「わうわうっ(オレ犬だし床でいいですからっ)!」
「あなたの寝るところはここですよ」
カカシはにこやかに、それでもきっぱりと言い切って、イルカの手を先程より強く引いた。その力に抗いきれず、イルカは倒れ込むようにして身体がベッドへと沈む。振動でベッド全体が大きく軋み、スプリングが跳ね上がるような感覚を齎す。
倒れ込んだ所為で、鼻をマットレスに強く押し付けた格好となったイルカが顔を上げれば。
「ごめんね、ちょっと強くやり過ぎちゃった。ああ、ここ赤くなってる」
白い指がそっと鼻の頭に触れる。それは風呂上がりだというのに、ひやりと冷たく感じた。
至近距離にあるお陰で輪郭のはっきりしない白い指を眺めていると。
「でもね、ただ一緒に寝るだけだから。別に変なことはしないよ」
どこか誠実そうに告げてくるカカシに、イルカの眉は自然と下がる。カカシが何かするなどとイルカは露ほども考えていない。そんなことにはならないだろうことも、わかっている。だからこそ、余計に複雑だというのがイルカの本音だった。


―――・・今夜は眠れないだろうな、きっと。


カカシが傍に居るということだけでなく、自分の中に蟠るものの所為でも。
諦め半分に思って、大人しくカカシの隣へと潜り込む。するとカカシはやさしく微笑んで、そっとイルカの髪を梳いてくれた。その心地良さに自然と瞼を閉じれば、カカシからくすりと笑う声が漏れる。
「いい子」
その言葉に、心中に湧く複雑なものが急速に膨れ上がっていく。それが伝わらないよう、きつく瞼を閉じるイルカに「おやすみ」とカカシの声が掛かり、室内の電気が落とされる。
闇に覆われ、しんと静まり返った部屋の中でその内穏やかな息遣いがイルカの耳に届いた。
そっと隣を伺うと、カカシの端正な顔がイルカの方へと向いていた。但し、その瞼は閉じられている。
眠っているカカシは、起きている時より少しだけ幼く、無防備に見えた。
そんなカカシの顔をじっと見つめる。
いつしか勝手に、イルカの口元は緩んでいた。カカシの寝顔を傍で目にするなど、こんなことでもなければ不可能だったろう。
犬だから。犬だからこそ、カカシはイルカを傍に置いてくれる。本来なら相手にすらしないだろうイルカを、一番近くに。
ならば、このまま犬の立場に甘んじてもいい、とイルカは思った。カカシがイルカを犬として扱うなら、それに付き合えばいい。それが気まぐれによるものだったとしても、カカシが飽きるまでは傍に居られる。
そこまで考えて、不意に痛んだ胸に、イルカは眉を顰めていた。
しかしその痛みに気付かないふりをして、そこに在るカカシの顔を黙って見つめ続けた。





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