モドル | ススム

● やっぱり犬がすき? ---  ●




歓楽街から住宅の密集するところまでは少し距離がある。
途中の道に街灯は少ないが、中天に掛かる月の光で足元は十分明るい。その中を、イルカは一人歩いていた。歩みがどこか覚束ないのは、先程腹に入れた酒が回っているからだ。
イルカと同じような状態になりながらも、これから別の店へハシゴするというモズとハヤとは居酒屋で別れていた。
「イルカぁ、女はそいつひとりじゃねぇからなぁ」
「辛かったらオレが胸を貸してやっから!遠慮なく飛び込んでこぉい!!」
などと口々に言うモズとハヤに応えながら、あんまり遅くなるとカカシが心配する、と一瞬でも考えた己に内心で苦く笑う。
忠犬なことで、と自らを卑下しながら、それでも向かう先はカカシのマンション。カカシが任務に出る前に約束していたのだ。
「オレが任務に出ていても、ちゃんとここに帰ってね。帰ったらすぐに顔が見たいし」
そう言って、何の屈託もなく笑っていた。
その時イルカの胸に去来したのは奇妙な感情だった。そう言われて嬉しいのが半分と、複雑なのが半分。
カカシが求めているのは犬としてのイルカの存在であって、決してイルカそのものではない。


――― それって相手から都合の良い男だって思われてるぜ。


不意にモズの言葉を思い出して、イルカの足が止まる。
都合の良い男。犬扱いでも傍に居て、あまつ尻尾さえ振るような扱いやすい相手。
カカシにとってのイルカは、正しくそうなのかもしれなかった。
最初こそ犬扱いされることを迷ったし、受け入れ難いと思っていた。
けれどカカシが好きで、どうしようもなく惹かれていたから、傍に居られるのなら犬でもいいと思った。ただ、今はそれが酷く辛い。
カカシはイルカにやさしい。しかしそれは、愛玩動物に向ける底のない甘さと同類のものなのだ。
これ以上、進展する望みのない想い。それを抱えてカカシの傍に居ることは、想像以上の苦痛をイルカに齎していた。
「・・・離れた方が、いいのかな」
頭の片隅でずっと考えていたことを口に出せば、その想いがより強く固まるような気がした。
それに溜息を吐きそうになるのを堪えて、イルカは空を見上げる。
空に浮かぶ月は僅かに欠けてはいるが丸に近い形だった。それはいやに青白く、闇の中でくっきりと浮き出して見えた。
そこから注がれる光は日の光に比べてどこか寒々しく、肌寒いということもないのに自然と身が震える。
すると酷く心許ないようになり、イルカはいつしか道の真ん中に屈み込んでいた。
深夜も近い往来に人影はなく、イルカはそのまま立てた膝の間に顔を埋めてみる。このまま泣いたら気持ちがいいかもしれない、と思いながらも涙は出てこなかった。頭の一部分が奇妙に冴えているのをどこか他人事のように感じていると。


「ちょっと、大丈夫?」


既に耳に馴染んだ―――けれど今はあまり聞きたくなかった―――声が頭上から掛けられて、イルカは身を固くする。
そして僅かに逡巡してからのろのろと顔を上げれば、そこにはカカシがイルカを見下ろすような格好で立っていた。
丁度カカシの頭上に架かるように青白い月が在り、その光の加減で常より酷薄そうな印象を受けた。
「まさかこんなところで会うなんてね。こんな遅くまでどこに行ってたの・・・って、もしかしてイルカ先生、呑んでる?」
イルカの顔を覗き込むようにして身体を傾けるカカシの顔は、額当てと口布に隠されていても険しいのがわかる。
そのカカシが、大きく溜息を吐いた。反射的にイルカの肩が竦み上がる。
怒っているだろうか、呆れているだろうか。もしかしたらこのまま・・・棄てられるかもしれない。
咄嗟に胸に湧いた思いに気付いて、イルカは無性に悲しくなった。その瞬間、もう何もかもが限界だと思った。
「ほら、立てますか」
そう言ってイルカの腕を掴んで立ち上がらせようとしていたカカシの手を、強引に払う。
「イルカ先生?」
「もう嫌なんです」
「えっ」
「カカシ先生の傍に居るのは、嫌」
独り言のように呟いてから、イルカは俯いたまま続ける。
「あの約束、なかったことにして下さい。ぜんぶ終わりにしましょう」
小さい声で、それでもきっぱりとカカシに告げる。
「・・・それ、本気?」
カカシの言葉に、顔を上げることのないまま頷けば、どこか平坦な声が頭上から降ってくる。
「オレ、イルカ先生のこと気に入ってたのに。残念です」
そう言うと、カカシはそのまま踵を返して歩き出す。イルカはすぐに顔を上げて、その後姿を見遣った。
どんどん離れていく背にみっともなく追い縋り、先程の言葉は無かったことにして欲しいと懇願したいと何度思ったともしれない。
けれどイルカはそうしなかった。ぐっと奥歯を噛み締めて、その感情に耐えた。
これでいい。これでいいんだ。
そう必死に自分に言い聞かせながら、イルカは遠ざかるカカシの背中を見送った。
そして、それが完全に見えなくなっても尚、暫くその場から動けないでいた。







「おい、イルカ」
すぐ真横から掛けられた声に、イルカは受理した報告書の整理の手を止めて、そちらへ顔を向けた。
イルカの隣ではモズが同じように報告書の整理をしている。
「お前、大丈夫か?」
「大丈夫って、整理ならちゃんと」
「んなの、わかってるよ。オレが言いたいのはそういうことじゃなくて・・・」
言い辛そうに口篭る相手に対してイルカが訝しむような目を向ければ、モズは腹を決めたように続ける。
「お前最近、何かあっただろ。よくぼーっとしてるし、何をしてても上の空だったりするし。オレだけじゃなくて、他の先生も、子供達だっておかしいって思ってる」
モズの言葉に、イルカは耳が痛い、と思う。
確かにここ一週間ほど、イルカはらしくない失敗を連発していた。
アカデミーで子供達に話し掛けられても気付かないというのは序の口で、以前に済ませた内容を再び授業で取り扱ったり、野外演習の監督中に不注意から川に落ちて濡れ鼠になったり。
受付所でも不備のある報告書を数多く受理して、上の人間にこってりと絞られたのはつい先刻の話だった。
アカデミーで、受付所で、普段はやらないような失敗を繰り返し、これではいけないとイルカ自身思っているというのにどうにも上手くいかなかった。
「悪い」
「・・・なあ、それってさ、前に言ってた女が関係してんのか?」
わざわざ声のトーンを一段落として訊ねてくるモズに、イルカは苦笑する。受付所は今、モズとイルカの二人きりなのだ。
「うん、まあ、そんなとこ」
軽く答えながら、その言葉とは裏腹の自らの状態に苦いものを覚える。
カカシに離れることを告げた日から、イルカは自分の中にぽっかりと空洞があるのを自覚していた。
それは何をしていても埋められず、時間が経つにつれ、狭まるどころか逆に大きく広がっていくばかりのように思えた。
ここまで引き摺る性格だとは、カカシと離れるまでイルカ自身思ってもみなかった。過去、付き合ってきた相手と別れた時にもこんなことにはならなかったというのに。
しかしよく考えてみれば、自分から、しかもあれほど未練を抱いたまま相手と別れたことなどなかったのだ、と気付く。それほどカカシの存在はイルカの中で大きかったということだろう。
自らの思考に沈み込みそうになるイルカに、どこかしんみりと「そっか」と零したモズは、手にした報告書の束を揃えながら。
「今度、合コンセッティングしてやるよ。お前好みの可愛い娘、揃えてやっから。な?」
モズの言葉にイルカが曖昧な笑みを浮かべていると、扉が開いて報告書を持った忍が入ってくる。すぐに応対するモズを横目に眺めながら、イルカはそっと息を吐いていた。
今はまだ、別の相手のことなど考えられなかった。離れることを告げたのはイルカだというのに、カカシとのことが吹っ切れていないのだ。
ふとした瞬間に、カカシのことを考えている。
自分のアパートに帰り、暗い部屋を目の当たりにした時。一人で御飯を食べている時。テレビを観ている時。風呂に浸かりながら。着替えのパジャマを見て。そして、湿っぽい布団に一人で潜り込む時。
いちいちカカシのことを思い出しては、必ず胸苦しくなった。
一人の時間がこんなにもつまらなく、また侘しいものだったと思い知らされるようだった。
あの日から、カカシは何も言ってはこない。受付所で顔を合わせることがあっても、話し掛けられることはおろか、目すら合わせて貰えない。
それに、犬でもいいから傍に居れば良かった、と今更のように後悔した。
けれどその度に、これで良かったのだと自分に言い聞かせるのが常だった。
最初からおかしな話だったのだ。イルカは人間なのに犬扱い、など。
カカシはイルカを揶っていたに過ぎないのだろう。だからこそ、離れたイルカを追わないのだ。きっと、はじめから望みはなかったに違いない。
上忍と中忍。片や他国の手配帳にまで名が載るような相手、片やしがないアカデミーの教師。
イルカにとってカカシは元々雲の上の相手だった。ならば、今のこの状態が当たり前なのだ。イルカが少し、夢を見ただけの話。分不相応の夢を。ただ、これももう少し時間が経てばきっと解決することだ。
そう、イルカがぼんやり考えていると。
「おい、イルカ!」
焦ったようなモズの声に顔を上げると、目と鼻の先に一枚の報告書が差し出されていた。
その奥に構える僅かに苛立った雰囲気を漂わせる相手に、「すいません!」と大きく頭を下げてイルカは報告書を受け取る。
その中身をチェックしながら、イルカはカカシのことを頭の隅に追いやった。後はもう、何も考えないようにして仕事に没頭した。




モドル | ススム

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system